2017年7月6日木曜日

第二次文献としての『音楽要素から構築された人間のからだ』

2017年6月19日からクラウドファンディング上で出版の為の支援が開始されたアルミン・J・フーゼマン著『音楽要素から構築された人間のからだ』。長らく日本語訳の出版が待ち望まれていた本書だが、ファンディング開始6日目で目標金額達成という事実をみても、いかに本書の日本語訳が待ち望まれていたかが分かる。ヨーロッパで出版以後、約20年に亘って版を重ねてきた本書の重要性について、クライス代表の竹下哲生氏に語ってもらった。

クラウドファンディングは2017年7月31日まで:
(本書は一般書店での販売予定がありません。是非この機会にご支援よろしくお願い致します。)


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第二次文献としての『音楽要素から構築された人間のからだ』

本書の出版に伴って、いわゆる“第二次文献”の位置付けも同時に発信していきたいと思う。精神科学としてのアントロポゾフィーに於いて、ルドルフ・シュタイナー自身の手による「著作」の重要性は特別な位置を占めている。そして、この事実は決して当然のことではない。

それは例えば進化生物学者にとっての『種の起源』や、或いは物理学者にとっての『天文対話』の位置付けを考えてみるだけで明らかだろう。詰まり、いわゆるダーウィン主義的な進化論を学ぶために『種の起源』は必読の書ではないし、そもそも近代物理学を学ぶにあたってガリレオの『天文対話』を読む者は一人もいないということである。ダーウィン主義にせよ近代物理学にせよ本質的な問題は、その「精神」であって、それが最初にこの世に現れた形式――即ち創始者自身の手による著作――には、単なる「歴史的な価値」しかないのだ。

実際シュタイナー自身も薔薇十字の精神に言及する時、正にこういったロジックを用いている。詰まり小学生が幾何学を学ぶ時にユークリッドの『原論』を手にすることがないように、薔薇十字というヨーロッパの伝統を理解するために最初に問題となるべきは歴史的な事実ではなく、その「精神」だということである。別の表現を用いるならば、後者の「精神に立ち返る」という方法は「直接的な道」であって、これに対して前者の「歴史的関連性から考察する」というのは手間のかかる「回り道」なのである。

そういった意味でアントロポゾフィーに興味がある者が最初に行うべきは、シュタイナーの著作を読むことではなく、それを実践している者の話を聞くことだと言えるだろう。ユークリッドの『原論』から現代的な意味に於ける幾何学を構築することは難しいが、そこから生まれた「ユークリッド幾何学」の問題は小学生でも簡単に解くことが出来る。そして殆どの人は小学校の図形の授業で、それとは知らずにユークリッド幾何学を学ぶが、ユークリッドの『原論』を読む人は殆どいない。同様にシュタイナーの著作を読む者に比べて、アントロポゾフィーを学ぶ者は圧倒的に多いのだ。

それでは何故、冒頭で述べたように「アントロポゾフィーに於けるシュタイナーの著作」が、特別な意味を持っているのだろうか。それはシュタイナーの著作を読むことが、彼の構築した思考世界と直接的に対話することだからだ。

 言うまでもなく、この考え方は以上に述べてきたことと矛盾する。というのも、これまでは本質的な問題は「精神」に立ち返ることであって、「歴史」的な資料に触れることではないと述べてきた。しかし、それでも矢張りシュタイナー以外の誰かの講演を聴くことは無駄の多い「回り道」であって、彼自身による著作を読むことこそが「直接的な体験」なのだ。そして、こうした見かけ上の矛盾は、以下のような現実について思考することで解決される。


聞くことと体験すること

先ずオイリュトミーのことを全く知らない人に、オイリュトミーの説明をすることを想像して欲しい。その場合、この人に例えば「オイリュトミーとは新しい運動芸術」などという説明をしても、何の意味もない。それは音楽を聴いたことがない人に「音楽とは音を素材とした芸術である」と説明したところで、何の意味もないことと同じである。オイリュトミーの場合これと同じで、結局のところ「オイリュトミーを体験」してもらうのが最も確実で、また最も手っ取り早い方法なのだ。

この場合、考えられる選択肢は二つ。詰まり近くで開催されているオイリュトミー公演を一緒に見に行くか、或いは近所のオイリュトミー教室に行って自分で動いて体験してもらうということである。しかし、話はこれで終わらない。何故ならば、その人はオイリュトミーにハマってしまって、毎週のように熱心に教室に通うようになったからだ。そして、そうやって「自分なりに理解したオイリュトミー」が見えてきた頃に、ふと自分の先生のオイリュトミーに疑問を感じるようになる。

確かに自分は、この先生に手取り足取り教えてもらったので、自分がオイリュトミーについて知っていることの殆どは、この先生によっている。だからこそ、この先生がオイリュトミーについて言っていることは、全て「正しい」はずなのに、どうも合点がいかない。そこで何人かの他の先生にも訊いてみるけど、それでも納得のいく答えが得られない。そして、こういった問題意識を持った者の中には必ず「源泉」への憧れが生じる。詰まり、これまではオイリュトミーの先生に汲んで来て貰っていたのだけれども、これからは自力でオイリュトミーを汲みに行きたいと考えるようになるということである。 こうして、この人はオイリュトミーフィギュアという「正解」を見つける。それは自分の慕っているオイリュトミーの先生に訊いても分からなかったし、また色んなオイリュトミー公演をみても分からなかったオイリュトミーの本質を、教えてくれるかも知れないのだ。



さて仮に、この人が最初にオイリュトミー教室に行ってから、オイリュトミーフィギュアに辿り着くまでに三年かかったとする。しかし恐らく、この人は「最初にオイリュトミーフィギュアを見せて欲しかった」とは言わないだろう。何故ならオイリュトミーのことを全く知らない人にとってのオイリュトミーフィギュアは、単に色の付いた角張った人の形に過ぎないからだ。

詰まりアントロポゾフィーの初心者は先ず現代の人間を通して「入門」することが望ましいが、上級者になると何らかの形でシュタイナー自身の手による「源泉」に立ち返る必要が出てくるのだ。そして、この法則性は基本的にすべての「学ぶことのできるもの」に共通している。例えばカントの思想に興味のある者は『純粋理性批判』からではなく、先ず近くの書店で安価に買える「カント入門」みたいな本を読むことから始めるだろうし、同様に聖書に興味のあるものは先ず「聖書入門」を手にするだろう。 しかし本当に深めているなら、どこかの時点で「入門書」では満足できなくなる。誰かがカントの思想を「解釈」したものではなく、カントの手による言葉を直に読みたいと思うようになるのだ。そして、この段階に入った時点で、既に入門書で身に付けた知識が邪魔になることがある。詰まり、それまでは自分をカントに「近づけて」くれていた入門書が、今度はこれ以上カントに「近づかない」ようにと抵抗するのだ。


「提供される側」から「提供する側」へ

こういう問題は、何かを「提供される側」から「提供する側」へと移行する時に必ず起きる。先程のオイリュトミーの例で言うと、オイリュトミーを「教えてもらう側」である限り、こういった問題は起こらない。しかし自分の先生のオイリュトミーに疑問を持ち始めた時点で、その人は徐々に「教える側」へと移行しているのだ。そして、この時には「教えてもらったこと」の全てが自分の成長の足枷になるのである。

それゆえ、こういう問題を意識している音楽家は、新しい楽譜を貰った時に敢えてデモテープを聴かない。何故なら、その新しい曲が自分の中で明確になり始めた頃に、必ず最初に聴いたデモテープの印象が邪魔になることが分かっているからだ。確かに「表面だけなぞる」のであればデモテープを真似ることから始めるのが手っ取り早い、しかし本当に自分の中で「音楽を創る」ためには、デモテープを聴かないことが結果的には近道になるのである。

即効性のある薬の効き目は長続きしない。本当の治療とは、自分の体を変えることで病気を克服するということであり、そのためには意図的に「回り道」を選んだほうが結果的には早いのである。


第二次文献とは

こういった背景からドイツでは、シュタイナーのものではないアントロポゾフィー関連書は全て「第二次文献Sekundärliteratur」と総称されている。詰まり、それは「入門書」ではあっても、研究の対象にはならないという意味である。

とは言え「名作」と呼ばれる第二次文献は、単なる入門書以上の価値を持っている。何故ならばシュタイナーによって公開されたアントロポゾフィーは飽くまでも「総論」であって、未だ論じられていない「各論」は無数に存在するからだ。例えば昨年秋に亡くなられたハンス=ヴェルナー・シュレーダー氏は『人間と悪』Der Mensch und das Böse. Ursprung, Wesen und Sinn der Widersachermächte. 1984 という書籍を公開している。この本を執筆した理由として氏は、シュタイナーの著作の中に「アントロポゾフィー的な世界観に於ける『悪』という概念の全体像」を表現したものが一冊も無いからだと述べている。

確かにシュタイナーは様々な講演の中でルシファーとアーリマンという「敵対者」について論じているし、また著作の中でも「悪」の由来や本質について論じている箇所は少なくない。しかし、それでも一冊の本全てが「悪」というひとつのテーマを中心に構成されたものは何処にもないのだ。この本の中でシュレーダー氏は古今東西の神話やメルヒェンを参照して、いわば「悪のエッセンス」と呼べるものを抽出する。そして、それをアントロポゾフィー的な悪の概念で解釈しつつ、古典的な「ヨブ=ファウスト問題」へと移行する。そしてキリスト教神学に於ける堕罪、すなわち「ルシファーの影響」と、その治療行為としてのキリスト救済、更にはミカエルの使命へと続いてく。

詰まり、この本は「悪」という身近な問題意識を入り口にして、いわば「アントロポゾフィーの全体像」を描こうとしているのである。同様にアルバート・ズスマン氏による『魂の扉・十二感覚』もまた、シュタイナーの「十二感覚論の入門書」などではなく、これは十二感覚論を入口とした「アントロポゾフィーの入門書」だと言うのが適切だろう。

これが読む価値のある第二次文献の特徴として、最初に挙げられるものである。それはシュタイナーの思想を「分かり易く噛み砕いた」ものなどではなく、アントロポゾフィーの全体を、シュタイナーがやっていない「切り口」から再構成しようとしているのである。

とは言え、これ以外にも「第二次文献」が書かれる理由がある。それはシュタイナーが生前に研究成果を発表することがなかった、いわば「未開拓の分野」を論じたものである。

例えば七つの惑星と七つの金属との対応関係についてシュタイナーは様々な講演の中で述べているが、黄道十二宮と化学元素との対応については同様に全てを明らかにしてはいない。但し白羊宮は珪素、金牛宮は窒素という対応関係だけは明らかなので、これによって石灰、酸素、炭素、水素に関しては容易に想像がつく。また残りの「エーテル十字」に関してもアルカリ金属、アルカリ土類金属、ハロゲン元素、また燐、硫黄、アルミなどによって構成されていると考えるのが自然だろう。

とは言え、こういった問題は謎解きパズルではないので、飽くまでも厳密な現象学的化学の研究成果として発表されなければならない。そして実際ドイツ語では、そういった研究成果の幾つかが異なる著者によって書籍として発表されているのである。また、これに付随してアントロポゾフィー業界でよく耳にする「七つの穀物」と七つの惑星との対応関係は、ウド・レンツェンブリンクらが前世紀の七十年代以降に行った栄養学の研究の成果であって、シュタイナーに遡るものではないということをここで明記しておきたい。

とは言え、これらは未だ「恵まれた分野」だと言える。何故なら栄養や化学に関してシュタイナーは様々な講演で言及しており、医学講座や農業講座ではかなり包括的な表現が見られるので、そこからアイデアを発展させていくことが出来るからだ。これに対してシュタイナーは「音楽講座」を行っておらず、いわば「アントロポゾフィー的な音楽芸術」の全体像はなかなか見えてこない。よって彼が様々な場面行った音楽に関する言及を寄せ集めて、それらの「断片」からなんとかして全体をイメージしていくしかないのだ。

そして最も救いがないのが法律の分野で、これに関してはシュタイナーが「社会有機体」に関連して述べている人権の概念と、世界史に於けるローマ精神の意味に基づいて、現代の法について再検討していくしかない。しかし逆に言えば、この様にシュタイナーによる助言の少ない分野こそ、今を生きる人間による研究成果の発表、即ち「第二次文献」の執筆が求められているとも言えるだろう。


東洋と西洋の違い

東洋に於ける芸術の歴史は「名人」と呼ばれる人間が最初に全てを完成させて、それを大切に守り培っていくことにあるが、西洋の芸術は先人の業績を批判的に継承することで「歴史的に発展」していく。それは空海による真言宗と、最澄による天台宗と表現した方が分かり易いだろうか。

そういった意味で日本に於いては「第二次文献」よりも、シュタイナーの著作の翻訳の方が遥かに多いのは当然のことと言えるだろう。ところがドイツの状況はこれと逆転していて、今やシュタイナーの本を買う人は一部の「好事家」に限られている。そのためドイツでは「シュタイナーの文献に立ち返る」ことの大切さが訴えられているが、逆に日本では「第二次文献」の必要性が重要になるのだ。そういった意味で石井秀治氏の業績は、シュタイナーの文献を多く翻訳された西川隆範氏や高橋巌氏と同等に評価されるべきだろう。

そして今年の春に吉田和彦氏が翻訳された『音楽要素から構築された人間のからだ』の価値もまた、このような背景の中で適切に位置付けられなければならない。というのも、このアルミン・ヨハネス・フーゼマンによる著作は、既に述べた「上質の第二次文献」の条件を、どちらも満たしているからだ。先ず、この本はアントロポゾフィー医療に於ける人間理解の全体像を、音楽的な観点から解き明かしているという意味で、分かり易く噛み砕いた入門書などではない。実際ドイツ語の原書を買ってみたものの、余りにも難解なので途中でギブアップしてしまった、という日本人の声を聞いたのは一度や二度ではない。

例えば本書は「球」という彫塑的なフォルムについての考察から始まり、エーテル的造形作用とアストラル的形態作用の識別へと移行する。そして、こうした考察の延長線上にトリカブトやベラドンナという「毒草」が、どうして治療薬として用いられるのかが明らかになる。このような手順で全ての典型的な治療薬が紹介されるわけではないが、アントロポゾフィー医療という全体に於いて、個々の治療薬が持っている「位置付け」が明らかとなるのだ。


今後の課題:「個人」と「社会」を結ぶもの

冒頭で述べたように、精神科学としてのアントロポゾフィーはシュタイナーの著作によって既に「完成している」と言って差し支えない(『神秘学概論』)。しかし、この精神が社会の中で活かされるためには、それが自然科学的な研究成果によって繰り返し証明されていかなければならない。何故なら「精神」は目に見えないけれども、感覚的な「現実」は誰もが自分で確認することが出来るからだ。 そういった意味でアントロポゾフィーの第二次文献とは、いわば「個人」的な直観と「社会」的な認知を結ぶものだと言うことが出来るだろう。

また通常の自然科学は、どのように解釈してよいのか分からない、無数の研究結果を持っている。それを精神的な人間認識に基づいて、大きな全体像の中に適切に組み入れることもまた、第二次文献の使命だと言えるだろう。 今回のフーゼマン氏の著作の出版が、日本に於いて「自然と精神を結ぶ」ことの一翼を担えればと思う。

竹下哲生/Tezuo Takeshita(Shikoku Anthroposophie-Kreis代表)
1981 年香川県生まれ。2000 年渡独。2002 年キリスト者共同体神学校入学。2004年体調不良により学業を中断し帰国。現在自宅で療養しながら四国でアントロポゾフィー活動に参加。共著『親の仕事、教師の仕事〜教育と社会形成〜』訳書『アントロポゾフィー協会と精神科学自由大学』『アトピー性皮膚炎の理解とアントロポゾフィー医療入門』(いずれもSAKS-BOOKS)他。


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1 件のコメント :

  1. 私は音楽に携わってきたので、アントロポゾフィーからの音楽論には大変関心があります。
    しかし、シュタイナー自身の語った音楽に関するものは非常に断片的であるので、今回の出版を非常に嬉しく思います。

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