2017年1月8日日曜日

第三部:機械化されてゆく現代とコミュニケーションの問題

Pont du Gard




先日SAKS-BOOKSから発売された『アントロポゾフィー協会と精神科学自由大学』ヨハネス・キュール, ヨハネス・グライナー(共著)竹下哲生(編訳)。その中で、個と社会との関係性(対立)を論じるために、デザインとアートの関係性(対立)についても触れられた。本対談では、前掲書の編訳を行ったShikoku Anthroposophie-Kreis代表の竹下哲生と、ブックデザインの担当をしたArt Director / Designerの髙橋祐太が、主に西洋芸術史を基にデザインとアートという対立について考え、それを軸に現代日本の社会問題についても考えていく。


竹下:そもそもデザイナーという職業は、誰もが「自然に」デザイン出来ているうちは全く必要ありません。それは丁度、病気に罹る人が居なければ、医師は必要とされないことと同じです。例えば紀元前の建造物であるポン・デュ・ガールを見ても、それが「デザインされている」ということは間違いありません。しかし手作りの鍬の柄が丸いことが当然である様に、人の手で作った建造物がデザインされていることは、いわば当然のことなのです。

こうした視点に基づいて歴史的に「デザインの起源」について考えるならば、問題なのは「人間は何時からデザインするようになったか」ではなくて正にその逆、詰まり「人間は何時からデザイン出来なくなったのか」なのです。とても奇妙な表現ですが「デザインされていないもの」を作る人が多くなってきたからこそ、デザイナーという職業が求められるようになるのです。

そう考えるならばデザイナーという職業が、産業革命より以前は殆ど誰からも必要とされていなかったであろうことは、容易に想像がつきます。何故なら全ての職人は、いわば「無意識のデザイナー」だからです。それまでは食器であれ鎌であれ椅子であれ、全ては人の手によって「精魂込めて」作られていました。だからこそ、職人の作る生産物には必ず、既に述べた「人間性」と呼べるものが刻印されていたのです。

ところが社会に於ける生産というプロセスの中に機械が、即ち「人間ではないもの」が介入することで、それは空洞化します。こうして先ず「生産」が機械化されて空虚なものになり、次に流通も機械化されて空虚なものになります。そして、その結果として消費も機械的で冷たいものになるのは、全く当然のことなのです。そして事もあろうに、ひと昔前までは「経済を活性化する」というもっともらしい理由から「使い捨て文化」は推奨すらされていたのです。幸いなことに、そういった考え方は「エコ意識」が台頭する前世紀の終わり頃から社会的に少しずつ克服されていきました。そして21世紀の現代に於いて紙コップの使い捨ては社会的に「悪」だと認知されているのに対して、人間の使い捨ては殆ど問題にならないのです。

 詰まり、先ずは「モノ」から人間性が失われ、最後には「人間」そのものがモノとして扱われるようになるということです。そして現代に於いて、人間をモノのように取引する「労働市場」という考え方は、全く当たり前のことになってしまっています。こうした傾向が、近代の産物であることは疑いの余地がありません。そして、こういった問題は遅くとも19世紀の時点では既に、後に思想家と呼ばれる人たちに意識されています。例えばマルクスの「疎外論」なんかは、そうですね。

詰まり最初は人間が楽をしたくて機械を導入した筈なのに、何時の間にか機械に職を奪われて、考えようによっては人間の方が機械に働かされているのではないかと感じる――ということです。こういう現状に気が付いた人には、二種類の極端な「結末」が待っています。先ず考えられるのは徹底的に機械的なものを排除して、過去に存在した全ての「人間的なもの」を取り戻そうとする方向性です。それは例えば自然の中に人間性を探し求めるナチュラリスト的な傾向につながり、ちょっと疲れた時には大麻を吸ってひと休みする訳です。これと正反対の可能性というのは労働の全てを機械にやらせて、人間は余った時間で自由に遊べば良いではないかという考え方です。こういう「進歩的な」考え方をする人は、古いものを破壊することに躊躇がないので「体制派」の人たちに嫌われて、粉飾決算とかいう良く分からない罪で牢屋に放り込まれたりする訳です。

そして結局、僕らはこの二つの極端な可能性の狭間で「常識的なバランス」を取っていくしかないんですね。これは全てが機械化していく世界の中で、何とか人間的なものを模索するという、実に「マトモな考え方」です。詰まり生活が便利になることは歓迎するけれども、その便利さに引っ張られて「自分らしさ」を失ってしまいたくないということです。こういう「現代特有の問題」の発端を、差し当たり産業革命くらいに探し求めることは間違っていないと思います。詰まり、そのあたりから人間の社会に機械が侵入して来て、場合によっては社会そのものまでもが機械化してしまう可能性を持ってしまったということです。

そして現代の問題というのは、自分自身が機械の歯車にされてしまいそうな危険性の中で、それでも「機械には出来ないこと」をしていくことだと思います。そして、それが見つからない人にとって、現代という時代は生き辛くて仕方がないのです。でも逆に、この時代を肯定的に捉えることもできます。何故なら中世に於いて人間の社会的な役割は、外から与えられていたからです。しかし現代を生きる我々は、それを自分で選ぶことが許されているのです。詰まり自分がやりたいことを機械に手伝わせることも、また自分が機械の道具になることも自由に決めて良いのです。

そして自分がやりたいことをやっている中で、その結果として病気になってしまうことも考えられます。そういうことがあると家族は、働き過ぎで病気になったんだから仕事をやめなさいと言うでしょうし、お寺のお坊さんなんかは好きなことやって生きているんだから寿命が短くなって当然じゃないかと言う訳です。しかし第三の可能性として、理解ある医者のところに行って、今の仕事は辞めたくないし病気も治して欲しいと頼むこともできるんですね。詰まり二者択一に於いて、その両方を選択するという「ワガママ」をする訳です。

そして現代というのは、こういう「ワガママ」が公然と許される時代なのだと僕は考えています。詰まり機械のおかげで便利になることは大歓迎だし、自分が面白いと思うことは一生やっていきたいという贅沢を許されているのが、正に現代人だということです。そしてデザイナーの仕事というのも本来、こういう実に「普通の」人間としての欲求に答えるものだと僕は考えているのです。

因みにイギリスで産業革命が始まったのが18世紀半ばのことですから、デザインはアートに比べて随分と新しい概念だということになります。これまでに述べて来た文脈だけなら確かにそうなのですが、デザインの起源をアートと同じくルネサンスあたりまで遡って考えることも全く可能で、その場合はヨハネス・グーテンベルクの活版印刷が問題になります。

そもそも人間の書く「文字」というものは、それを書いた人の「人格」の表現だと言えます。誰もが、その人に「固有の」筆跡を持っているので、それは例えば小切手の時のサインのように個人認証にも使われる訳です。そして人間の書いた文字は人格だけではなくて「感情」も表現します。それが興奮した時に書かれた文字なのか、冷静に思考している時の文字なのか、或いは確信に満ちて書かれた文字なのか、不確かな感覚の中で恐る恐る書かれたものなのかは、必ず「伝わる」ものです。

ところが印刷技術の発達によって、人の手によって書かれていた「文字」が、人格の要素を含まない「活字」に置き換えられるようになりました。こうして情報の共有や知識の拡散、更には大衆の啓蒙などに計り知れない貢献をした一方で、活字という「人格を持たない文字」が巷に溢れる様になりました。詰まり言葉(文字)という人間特有のものが、いわば「機械の所有物」になってしまったのです。

この問題を我々は「メールでは気持ちが伝わらない」というかたちで、日常的に体験しています。仮に相手が目の前に居るならば余計なことは言わないし、微妙なニュアンスを顔の表情や声のトーンで伝えることも出来ます。そして、それと同じ様なことは、ある程度のレベルまで手書きの文字でも表現できます。ですから例えば芸能人がマスコミ宛にコメントを発表する時には、敢えて手書きのメモをファックスで送ったりするのです。

もし自分の言葉の全てが人格を持たない――そして気持ちの籠っていない――フォントに置き換えられてしまうまらば、本来「伝えたいこと」がナカナカ伝わらないのも当然です。それは丁度、マスクをしたまま人と話をするようなものです。何しろ顔の下半分が隠れてしまうと、自分はニッコリ笑っているのに、相手は全然気が付かなかったりしますからね。そして、こういう「問題を解決する」のが、デザイナーの仕事なのです。

例えば僕は文章を書く時には、常に「印刷されても伝わる言葉」を意識しています。それは自分の言葉がフォントに置き換えられた時に、誤解を招く恐れのある場合は丁寧に言葉を選ぶし、逆に伝わり辛いと思えるものは、敢えて書かないとかそういうことです。そして言うまでもなく、これは「言葉をデザイン」しているのです。それは日常的に使っている言葉をそのまま文字(フォント)に置き換えるという作業ではなくて、フォントに変換された状態から逆算して言葉を形作っていくという手順です。

この様に言葉そのものをデザインするという文体(スタイル)の問題に加えて、書体(フォント)の問題もあります。例えば印刷媒体では今でも明朝(ローマン)体が主流ですが、スマホやパソコンなどの、いわゆるデジタルデバイスでは基本的にゴシック(サンセリフ)体が主に用いられています。こういう現状を見れば、どちらのフォントが歴史的にみて古いかは、考えるまでもありません。

そして、先ほど述べた「メールでは気持ちが伝わり辛い問題」の延長線上に、例えばLINEなどでのスタンプの発明が考えられます。それは旧来の「言葉を伝えるフォント」に加えて、いわば「感情を伝えるフォント」の開発が始まったということです。これは新しいフォントをデザインしたと言うこともできますし、コミュニケーション手段そのものをデザインした結果だと言うこともできるでしょう。






少し余談になってしまうのですが、ここで僕がLINEのスタンプに関して考えていることを言わせてください。何故ならスタンプによるコミュニケーションに関して一般にメディアで言われていることが、余りにも下らないからです。そこで述べられている論点は主に二つで、スタンプで会話することに慣れてしまうと「高度な言語」を使わなくなるのでバカになってしまうという問題と、もうひとつはコミュニケーションというのは「生身の人間どうし」で行われるべきであって、余りにもヴァーチャルな世界に没頭してしまうとリアルが遠くなってしまう、詰まり「現を抜かす」という問題です。

以上の二つの論点自体はそれなりに価値が有るのですが、そこで行われていることは結局のところ年寄りによる若者批判でしかないんですね。そして年寄りが若者を批判するのは、女性蔑視者のフェミニズム批判や、或いはレイシストの憎悪表現(ヘイトスピーチ)のようなもので、それは「憂さ晴らし」ではあっても客観的・社会的に価値の有る「言論」ではないんです。

LINEのスタンプによるコミュニケーションについて考える場合、先ずは通常の自然言語によるコミュニケーションに、どれだけの「機能」があるかについて考える必要が有ります。そうすると感情の共有と思考の伝達という、二つの異なる言語の機能が差し当たり思い当たります。第一に感情の共有というのは、例えば「今日は良い天気ですね」「そうですね」みたいな会話の中で行われていることです。この領域に於いては冬に「寒いですね」と言い、夏には「暑いですね」という、言う必要の無いことがワザワザ言われている訳です。理由は実に単純で、その感情を「共有(シェア)したいから」です。

これに対して思考の伝達というのは、その内容を伝える相手が知らない場合に行われるものです。例えば「今日は六時に帰る」と送る時、自分が九時ごろ帰るのか、場合によっては泊まりの仕事で今日は帰らないかも知れないのか、それを受け取る家族は事前に知らないのです。ですから、この会話(言語)内容は夏に「暑いですね」という言葉とは、全く違う領域で起きていることなのです。

それで少し冷静になって考えてみるとわかるのですが、我々が日常、言語を使ってコミュニケーションをする時、その大部分は以上の二つに分類されるのです。感情の共有というのは基本的にご近所さんや仲の良い友人、また家族との間で交わされる言語の機能で、その時の返答は「そうですね」か「うん」で事足ります。逆に職場に於けるコミュニケーションの大部分は業務連絡で、詰まり思考の伝達というか「意思の伝達」ですね。そして、その場合の返答は「分かりました」か「了解」が適当です。そこでは共感したかどうかではなくて、理解したかどうかが問題なのです。

そして僕が思うに、本来の言語の機能というのは、これら二つの中間にあります。詰まり、それは「思考の共有」であり「感情の伝達」なのです。というのも、以上のいずれの場合も相手が自分と同質であるということが無意識の前提になっているからです。例えば食事中の「美味しいね」という言葉は相手も美味しいと感じているということが無意識の前提になっていますし、また家族に送る「今日は六時に帰る」は今日は夕食を家で食べること、詰まり自分の分も夕飯を作っておくように、ということが「行間で」述べられており、そこには家族内での「文脈」があるのです。同じことは職場内での「業務連絡」に関しても言えて、言葉にしていないけれども伝わっていることがたくさんあるのは、それを聞く相手が基本的に自分と同質であることが無意識の前提になっているからなのです。

しかし本来の言語の機能というのは、自分とは全く異なる感性を持った人に自分の感情を伝えたり、或いは自分とは全く異なる考え方を持った人と思考内容を共有することだと僕は考えています。そして、そういう視点で自分の会話内容を客観的に精査してみると、この第三の要素は殆ど見当たらないんですね。例えば僕は「竹下さんは、どう思いますか?」と訊かれたので、正直に自分の感想を述べたら怒られた、という経験を何度もしています。何故ならば、その人は僕がどう思うのかを聞きたかったのではなくて、僕も「そう思う」ことが聞きたかったからです。詰まり日本語の「どう思いますか?」という質問には、基本的に「自分も、そう思います」という返答しか許されていないのです。

言うまでもなく僕だって、空気を読めば相手が求めている回答くらい分かります。でもそれをやるということは、言語の機能を「感情の共有」だけに限定するということなのです。確かにコミュニケーションというのは第一に、お互いの「共通項」を見つけていくプロセスだと言えます。しかし、それはコミュニケーションの半分に過ぎません。そして残りの半分は、相手が自分とどれだけ「違う人間」であるかを容認することなのです。詰まり人間らしい営みというのは、区別することと結びつけることを繰り返しながら前進していくことなのです。

そして仮に言葉を共感することにしか使わないならば、それは飼い犬との会話と本質的には変わらなくなってしまいます。もし動物は言葉を喋らないから、動物と「会話」することは不可能だと考えている人は、そもそも感情を共有するという感覚を、全く持っていない人なんだろうと思います。別に言語が無くても、感情を共有するというレベルでの「会話」をすることは、全く可能です。但し、そこには思考が含まれていないので、ペットとの会話というのは何時間やっても意味内容はゼロなのです。

とは言え人間もまた動物と同じように感情を持っていますから、会話に於けるそういう要素は全く「必要なもの」だと言ううこともできます。ですから例えば挨拶をすることには何の意味内容も含まれていませんが、人間関係を暖かいものにするという意図に於いては、全く価値のあることなのです。しかし、そういう「アイドリングトーク」を終えて、本来の意味での言語によるコミュニケーションを始めたと思ったのに、相手が「同意しか許さない会話」を求めてくるなら、その人は僕をペット扱いしている訳です。

とは言え日本に於いては、人間を動物扱いすることは寧ろ普通のことだと言えます。詰まり日本語という言語は殆ど、動物どうしが鳴き声で仲間意識を共有しあったり、或いは人間がペットに接する時のレベルでしか使われてないのが実情だということです。そして、こういう「日本的なコミュニケーション環境」の中で、若者どうしの会話がスタンプだけで成り立つことは、いわば当然のことなのです。そして、それはそれで「高度な」コミュニケーションだと言えます。例えば『LINEで子どもがバカになる』によると、最近の若い女の子の「キモい」には四種類くらいの異なった「意味」が有るらしいですよ(24頁)。因みに僕は牛の鳴き声を、四種類以上に聞き分けられますけどね。

さて教育の問題というのは、基本的に全て大人の問題に還元されます。詰まり子どもたちの日本語が人間的な発達を遂げていないのは、偏にその子どもたちを取り巻く大人たちがロクな日本語を使っていないということなのです。そういった意味で僕がここで訴えたいのは、若者の乏しい日本語力ではなくて、寧ろ「いい大人」の乏しいコミュニケーション能力の方なのです。どうやらコミュニケーション能力というのは、年を取れば自然に身につくものでもないらしく、50歳になろうが60歳になろうがマトモに日本語を話せない人というのは、本当に全く会話が成り立たないんですね。

恐らく、そういう人はずっと「空気を読む」会話だけをしてきたのだと思います。そういう人は感情を共有することはできても、自分とは異なる考え方や感性を持った人とは、殆ど一言も話せないのです。そういった意味で『LINEで子どもがバカになる』という本は、本来ならば「子どもたちがLINEでバカなことしかできないのは、周りの大人たちがバカだから」と改めるべきなんですね。何しろ本の内容は、そういうことが書かれているわけですから。

何れにせよ日本語というのは、主に感情の共有に使われています。これに対して業務連絡的な言語は人間的ではあるけれども、矢張り何か足りないような気がします。何故なら、そこでは客観的な「情報」が述べられるだけなので、人間として大切な「暖かさ」が足りないからです。そういう情報伝達だけを目的とした会話というのは、或る意味でロボット的なもので、先ほど述べた動物的な会話の正反対に位置します。そして本来の意味での「人間的な会話」というのは、この両極端の中間にあるのです。何故なら暖かい感情も冷静な思考も、どちらも人間として欠かせないものだからです。

思考というのは冷たいけれども、客観性を持っています。これに対して感情は確かに暖かいのですが、それは主観的なので「社会的な意味」は本来は持たないものなのです。よって本当の人間的な会話というのは、暖かい思考と客観的な感情が求められるということになります。そして言うまでもなく会話に於いて、この両方の要素を求めるのは僕がワガママな現代人だからに他なりません。そこに於いては自分の感情を伝えながらも、相手がまた違う感情を持っていることを望んでいるし、また自分の考えを相手に伝えるときにも、相手は自分とはまた別の観点から同じ思考内容を観察することが出来ると言うことを、望んでいます。何故ならば、それがそもそも「自分ではない誰か」と言葉を交わす動機なのですから。

以上の問題はフォントの発展や、LINEのスタンプについて考えているときに必然的に見えてくる問題です。如何なる「機械」も、人間によって作られたものです。それは機会が自己増殖する中で「自然に」発生したのではなくて、必ず人間の何らかの意図に基づいて作られたのです。ですからフォントやスタンプをデザインしようと思うならば、言語の本質やコミュニケーションの構造について考えることは、避けては通れないのです。

周知の様にスティーヴ・ジョブズは2005年のスタンフォード大学でのスピーチで、タイポグラフィーの講義について言及しています。詰まり21世紀にiPhoneをデザインしたAppleの精神は、15世紀に活版印刷を生んだグーテンベルクの精神の直系の子孫なのです。とは言えタイポグラフィーにしてもiPhoneにしても、高橋さんの方がお詳しいでしょうから、話を先に進めましょう。


つづく






竹下哲生/Tezuo Takeshita(Shikoku Anthroposophie-Kreis代表)
1981 年香川県生まれ。2000 年渡独。2002 年キリスト者共同体神学校入学。2004年体調不良により学業を中断し帰国。現在自宅で療養しながら四国でアントロポゾフィー活動に参加。共著『親の仕事、教師の仕事〜教育と社会形成〜』訳書『アントロポゾフィー協会と精神科学自由大学』『アトピー性皮膚炎の理解とアントロポゾフィー医療入門』(いずれもSAKS-BOOKS)他。



髙橋祐太/Yuta Takahashi(Art Director / Designer)
日本を拠点に活動するアートディレクター兼デザイナー。ブランディング、グラフィックデザイン、パッケージデザイン、エディトリアルデザイン、ウェブデザイン等を行う。物事の本質に忠実なシンプルで洗練されたデザインが特徴。German Design Award(ドイツ)、A' Design Award(イタリア)など国際アワードを受賞。Shikoku Anthroposophie-Kreis理事。www.yutatakahashi.jp




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