2016年12月17日土曜日

第二部:デザインについて(歴史的考察ではなく概念的考察)

Anthroposophische Gesellschaft und Freie Hochschule für Geisteswissenschaft designed by Yuta Takahashi


先日SAKS-BOOKSから発売された『アントロポゾフィー協会と精神科学自由大学』ヨハネス・キュール, ヨハネス・グライナー(共著)竹下哲生(編訳)。その中で、個と社会との関係性(対立)を論じるために、デザインとアートの関係性(対立)についても触れられた。本対談では、前掲書の編訳を行ったShikoku Anthroposophie-Kreis代表の竹下哲生と、ブックデザインの担当をしたArt Director / Designerの髙橋祐太が、主に西洋芸術史を基にデザインとアートという対立について考え、それを軸に現代日本の社会問題についても考えていく。


竹下:さてアートの話はこれくらいにして、次にデザインの話に移りましょう。しかし、ここで先に解決しておかなければならない問題が有ります。それは「そもそも何がデザインなのか」ということが、アートほど明確ではない、ということです。そこで少し長くなりますが、僕なりに理解している「デザイナーの仕事」について説明したいと思います。

例えば「頭が痛い」と言う患者に頭痛薬を処方し、また「足が痛い」と言う患者に痛み止めを注射する医師が、本当に「医者の仕事をしている」と言えるでしょうか。確かに頭痛薬で頭痛はやみ、痛み止めで足が痛いのは収まります。しかし医師の本当の仕事は、病気を「治療する」ことにあるのではないでしょうか。詰まり「頭が痛い」と言う患者は、本当は緊急に手術が必要な病気に罹っているかも知れませんし、また「足が痛い」と言う患者には骨折の処置が必要なのかも知れないということです。

僕が何を言いたいのかというと、仕事には必ず二種類のレイヤー(層)が有るということです。先ず患者というのは、自分の要望に応えて欲しいと考えています。詰まり頭痛があるのであれば頭痛を消し去って欲しいし、足が痛いなら足の痛みを取って欲しいのです。そして患者の側からすれば、それが「病院に来た動機」になる訳です。ところが医師の側からすれば、医者の仕事というのは「痛みを取る」ことではなくて「病気を治す」ことだということを知っています。ですから患者の訴える「症状」から「病気」を特定して、それを治療しようと試みる訳です。

この場合、患者の要望というのは「表面的なもの」で、これに対して医師の問題意識は「本質的なもの」だということになります。そして双方にとって望ましいのは、医師が病気に対する根本的なアプローチをした結果として、患者の懸案である「痛み」も取れているという状態です。そして大きな問題というのは痛みだけ取れていなくて病気が治療されていない場合で、小さな問題というのは病気は治療されたけれども痛みは残っているという場合です。そして最悪の状況というのは言うまでもなく、そのどちらも解決されていないのに医療費だけが発生するという可能性です。それは患者だけではなく、社会にとってもデメリットしか有りません。何故なら何の問題も解決されていないのに、社会の負担する医療費だけは増えているからです。 実は、こういう問題は全てのプロフェッショナルな領域に於いて言えることです。詰まり仕事を依頼するのは常に素人(アマチュア)で、それを解決するのは必ず何らかの専門家(プロフェッショナル)だということです。例えばどんな授業をするべきかを、生徒に尋ねる教師は碌でもない教育者に違いありません。何故ならば、それは教師がプロとして責任を持って決めるべきことであって、それをやってしまったら職場放棄も同然だからです。手術中の医師が患者に腹膜の切開の仕方を訊ねたりはしない様に、教育の主体は飽くまでも教師であって、生徒ではないのです。そして同じことは、生徒の保護者に於いても言えます。詰まり保護者は子どもを「教育してくれ」とは言うけれども、具体的に「何をするか」を決めるのは矢張り教師の側なのです。

仮に気の弱い教師が、子どもたちに何を教えるべきなのかを保護者に尋ねて回ったとしても、殆どの人から「それは、あなたたちプロの仕事だろう」と言われるのが関の山でしょう。詰まり教師は生徒の要望でも保護者の要望でもないところに、自分の仕事の軸を見出すべきだということです。そういえば「保育園落ちた日本死ね!!!」のブログの波紋から、今年の始め頃に「保育士さんの仕事の大変さ」がよくメディアで取り上げられていましたね。そこで興味深かったのは、殆どの人は保育士さんの仕事を「自分が働いている間に、子どもの安全(健康)を保証する仕事」という程度にしか理解していない、ということです。

ですから例えば子どもを預かっている間に怪我なんかさせてしまうと、保護者の方から「あなたたちはプロだろう、何をやっているんだ」とキツく叱責されてしまう訳です。言うまでもなく、こういう考え方は「表面的な要望」を主張する素人の立場として、全く正しいものです。だからこそ、その時に保育士さんの側が、プロとして自分の仕事に求められている「本質的な要望」を理解しているのか、そうでないかは決定的な意味を持っているのです。このことに関しては、後で詳しく話しましょう。

さてデザイナーの仕事というのもこれと同じで、例えば「目立つポスターを作ってくれ」とクライアントに言われた時、少なくとも二つのレイヤーを区別しなければなりません。例えばクライアントは「赤は目立つ色だから、全体的に赤いポスターにして欲しい」と言ったとしても、その人は出来上がったポスターが赤い壁に貼られることは全く想定していないのです。詰まり本質的な問題は「目立つ」ことであって、色を「赤にする」のは表面的なものでしかないということです。

もっと言うと、この「目立つ」というのも随分と漠然とした要望です。そもそもポスターというのは可能な限り多くの人に認知して貰う為に作るものなので、それが「目立つ」べきだというのは言う必要の無いことなのです。或いは出来上がったポスターが、他のポスターと並べて掲示されることも想定しなければなりません。そして仮に他のポスターも同じ様に「目立つ」ことだけを意識したものであれば、自分の作ったポスターは少しも目立たないのです。この場合、派手なものではなく、寧ろ地味なものを作った方が逆に「目立つ」かも知れません。そうやって考えていくと医者に診察を依頼する患者と同様、そもそもクライアントは「自分が何を依頼しているのか」を殆ど何も把握していないと考えるべきなのです。

表面的に見れば確かに、デザイナーの仕事はクライアントの要望に応えることです。しかし「本来の」デザイナーの仕事というのはクライアントではなく、消費者の要望に応えることなのです。そして消費者の要望に応えるということは、クライアントが「本当は」望んでいることなのです。それは痛みを訴える患者が、本当は(無意識に)病気の治療を望んでいることと同じです。ところが消費者もクライアントも、自分たちが「本当は」何を望んでいるのかが分かっていないので、代わりにデザイナーが探す訳です。こういう複雑な問題を、いわば「一流」と呼ばれているデザイナーは全く把握しています。例えば原研哉さんなんかは:

マーケティングの用語で「ニーズ」という言葉があるが、ニーズはとかく「ルーズ」になりがちである(原研哉『日本のデザイン――美意識がつくる未来』2011/10/21岩波新書ii頁)。

とバッサリ述べています。そもそも「ニーズ」の無いところに、デザイナーの仕事は有りません。それは病気が無ければ、医師の仕事が無いことと同じです。ところがデザイナーが消費者の「ニーズ」にばかり耳を傾けていると、それは医師が患者の痛みにばかり耳を傾けているのと同じなのです。消費者や患者は「解決すべき問題がある」ということを訴えてはくるのですが、それを「どう解決する」べきなのかは医師が自分で答えを見つけるべきであって、患者に訊いても意味が無いのです。ですから「ニーズ」しか見ていないデザインは「ルーズ」なものになってしまうのです。

少し長くなってしまいましたが、以上の事柄は僕がデザインの話をする前に明らかにしておきたかったことです。何故ならデザイナーの「本当の」仕事というのは、驚くほど誰からも理解されていないからです。これに対して「アーティストの仕事」は、そういう問題を殆ど持っていません。何故ならアーティストの仕事に理解の有る人というのは、もともとアーティスト的だからです。そして逆にアートが分からない人は、妄りに自分の物差しでアートを評価しようとはしません。そういう人はアートを、自分で判断できる範疇の外に置いているからです。ところが:

デザインを言葉にすることはもうひとつのデザインである。(『デザインのデザイン』2003/10/22原研哉i頁)

と原さんは自身の著作の冒頭で述べています。詰まり「デザインとは何かを社会に説明すること」は、デザイナーの仕事でもあるということです。とは言え、これは全てのプロフェッショナルな領域に関して言える、いわば「コミュニケーションの問題」だと言えます。何故なら仕事を依頼するのは素人なので、その素人に「プロの仕事の価値」が理解されるとは限らないからです。詰まりプロにはプロの言い分があり、素人には素人の言い分がある中で「素人にプロの仕事を理解させること」も、プロの仕事の一部だということです。

これに対してアーティストは「アートは何か」を社会に説明する義務を持っていません。それは恐らく、批評家の仕事だと見るのが妥当でしょう。何れにせよ本質的な問題は、デザイナーの仕事とは何かを明らかにする場合に、最低限二つのレイヤーを区別するということです。先ず一方には表面的でルーズな層があり、それはデザインの「発端」にはなります。しかし本来のデザイナーの仕事というのは、そこから更に掘り進んで本質的な領域まで至ることなのです。

例えば畑仕事をしていて鍬の柄が折れてしまったら、ホームセンターで角材を買って来て柄にすることが出来ます。ところが角材は握ると手が痛くなってしまうので、それは鍬の柄には適していません。詰まり、それは「デザインされていないもの」だということです。こういう話だけ聞くと「現実には、そんなに愚かな人間はいない」と感じるでしょうけれど、本質的な問題はこの様なことが可能な現状に目を向けることです。

仮に中世の農夫が鍬の柄を折ってしまったならば、その人は最寄りのホームセンターではなく森に行くはずです。そして森に有るのは角材ではなく、もとから丸い木なのです。そして農夫が愚かでなければ、木の幹ではなく適当な枝を探すはずです。そして最初から適当な太さと長さの枝を削って、鍬の柄にする訳です。詰まり大木を切り倒して幹から一旦角材を作り、その角を削って鍬の柄にすることは考えられません。ところが現代の鍬の柄は、正にその様にして作られているのです。

人間が自分の手を動かして鍬の柄を作っている限り、四角い柄というのは考えられません。しかし人間の代わりに風車や機会が丸太を切る様になって初めて、角材を鍬の柄にする可能性が生まれるのです。そして、この時にデザイナーの必要性が生まれます。詰まり誰かが「鍬の柄は手に馴染む様に、角をとって丸くした方がよいのではないか」と考えなければならないということです。この話だけ聞くと「デザインというのは簡単な仕事だ」と思われるかも知れませんが、実際に我々はデザインの領域に於いて鍬の柄を角材にする様なことを常にしています。例えば七味唐辛子の容器を赤くして、代わりに一味唐辛子の容器をオレンジにしたりという「惨状」です。

人間が「自然に」何かを作っている限り、必ず丸い柄が出来ます。ところが、そのプロセスに機械が介入すると、鍬の柄が四角くなってしまう可能性が出来てしまいます。これは原さん流に言うと「ルーズなニーズ」が形になったと言うことです。そして、それを見たデザイナーは角材を丸くしようと提案する訳です。こうして「デザインされたもの」が出来上がります。それは結果だけ見ると、最初に「自然に」出来たものと区別がつきません。しかし、それは全く異なるものなのです。とは言え、それは単に一方は枝を素材にしていて、他方は幹を素材にしていると言う外面的なものではありません。そうではなく、そこでの人間の関わり方が根本的に違うのです。

とは言え、この「微妙な問題」については今回は深く立ち入りません。結論だけ言うと、子どもの発達に於いて「歩く」という全く当たり前の行為が、九歳未満と以降では全く異なる様に、自ずとデザインされていた中世以前の日用工芸品と、大量生産に対応して意識的にデザインした製品は明確に区別されるべきだと言うことです。

最後にデザインに関して考えて居る時に、派生的に出て来る問題について簡単に言及しておこうと思います。それは、いわゆるAI(人工知能)やロボットの問題です。

例えば誰かが、人間の100倍の生産力を持った機械を発明したとします。それは技術の革新によって、ひとつの機械が100人の職人と同じだけの「労働」をする様になるということです。こうして100人の職人が仕事を失う代わりに、社会全体としては100人分の労働から「解放された」と言うことが出来ます。これは社会にとっては、明確に「利益」だと言うことが出来ます。何故なら機械には賃金を支払う必要は無いので、その結果として生産物の値段が下がるからです。仮に人件費のことだけを問題にするならば100人の職人を解雇する代わりに、この機械を運転する為に数人の機械技師を雇う必要が出て来るでしょう。詰まり100人の職人に支払われるべき賃金が、数人分の機械技師の賃金に圧縮されるということです。

以上の全てが生産を機械化することによるメリットだとするならば、それによるデメリットというのは簡単には明確になりません。例えばひとりの職人が、ひとつの鍋を生産する為に一日必要だったとします。そうすると「100人力」の機械は一日で100個の鍋を生産するということなのですが、ここに於いて「見落とされていること」があります。それはひとりの職人が一日かけて、ひとつの鍋を生産する時に単に肉体的な労働だけではなく、そこには必ず精神的な労働が注ぎ込まれているということです。それは「職人魂」というか「作っている人の心」というか、そういう実に曖昧で評価の難しいものです。

ところが興味深いことに、この極めて曖昧な要素を否定する人は何処にも居ません。例えばカフェに行って「手作り」のケーキが有れば、それを誰もがコンビニで買えるスイーツよりも価値のあるものだと見做すでしょう。或いは工場で作られた冷凍食品よりも家で作った料理の方が価値があるでしょうし、機械で生産したものよりも職人の手作りの工芸品に魅力を感じるのは当然です。因みに言っておきますが、ここで僕が論じているのは「品質」の問題ではありません。別に手作りのものが機械のものよりも「モノとしての価値」が高いと言っているのではなく、我々は「モノではなないものの価値」も当然のこととして評価している、ということが重要なのです。例えば「生産者の顔の見える野菜」の栄養価が、そうではない野菜よりも高い訳では無いことと同じです。

ここで問題になっているのは人間の手によって生産されたものは、機械によって生産されたものに比べて、より多くの「人間性」が刻印されているという、実に漠然としたものに過ぎません。そして少し強引な考え方になってしまうのですが、ひとりの職人がひとつの鍋を生産する時、そこでは八割の肉体労働と二割の精神労働が刻印されているとします。その場合「100人力」の機械は実際には、職人の仕事を80人分しかしていない、という理屈になるのです。そして残りの20人分の精神的な要素は、社会からスッカリ失われてしまっている訳です。だからこそ、この「穴」を埋める為に、デザイナーという職業が社会に求められることになります。

そして、このデザイナーは別に普通の人よりも20倍有能な人物である必要はありません。そうではなく、このデザイナーは20日かけて機械に作らせる鍋をデザインするのです。こうして社会は職人が鍋に込める筈だった「人間性」を失うことなく、尚且つ機械化によって80人分の労働(賃金)を削減することが出来るのです。詰まり、その分だけ鍋の値段は安くなるということです。言うまでもなく、この「職人が作る鍋は八割の肉体労働と、二割の精神労働で出来ている」という考え方は、極めて抽象的なものです。例えば、この考え方の中には101個目以降の鍋を、どう扱うかは全く述べられていませんし、そもそも鍋を製造する機械そのものを作る為に人間の精神が働いていることは、全く考慮されていません。

ですから、ここに於いて本質的な問題は「人間の労働の中には容易に機械化が可能なものと、そうでないものがある」という、ただそれだけのことなのです。例えばオーケストラの指揮者の仕事と、スコップで地面に穴を掘る仕事の、どちらが容易に機械化が可能かは一目瞭然です。巨大なゴミ処分場を作る為にショベルカーに穴を掘らせることはあっても、巨大なオーケストラを指揮する為に正確にタクトを振れるロボットを開発することは考えられません。

労働の肉体的な側面が本質的な意味を持っているならば、例えば鉱夫の仕事を機械にやらせるということが可能です。しかし精神的な側面は、容易に機械化することが出来ません。ところが興味深いことに、どれだけ精神的な労働も、その肉体的な側面のみを切り取って機械化することは可能なのです。例えば教師の仕事を「正確な知識を分かり易く伝えること」だと捉えるならば、完璧に行えた授業を録画しておいて、それを再生すれば良いだけなのです。そして指揮者は一番うまく出来た時の動きを、ホログラフで再現することも出来るでしょう。

こういった問題はデザイン的な領域で思考していると、止め処無く湧き上がってくる疑問です。詰まり何かの仕事を機械にやらせる時に、機械には何が出来て何が出来ないのかということです。それは裏を返せば「人間にしか出来ない仕事とは何なのか」と考えるということでもあります。そして、こういうことについて少しも真剣に考えようとしない連中は、例えば政治をAIにやらせるというSF的な空想について、真面目な顔をして議論したがるのです。

何にせよ自分が毎日やって居る「労働」の、何割ぐらいが機械に置き換えられるかを考えることは無駄ではありません。何しろバファリンだって、半分は「優しさ」で出来ている訳ですから。


つづく






竹下哲生/Tezuo Takeshita(Shikoku Anthroposophie-Kreis代表)
1981 年香川県生まれ。2000 年渡独。2002 年キリスト者共同体神学校入学。2004年体調不良により学業を中断し帰国。現在自宅で療養しながら四国でアントロポゾフィー活動に参加。共著『親の仕事、教師の仕事〜教育と社会形成〜』訳書『アントロポゾフィー協会と精神科学自由大学』『アトピー性皮膚炎の理解とアントロポゾフィー医療入門』(いずれもSAKS-BOOKS)他。



髙橋祐太/Yuta Takahashi(Art Director / Designer)
日本を拠点に活動するアートディレクター兼デザイナー。ブランディング、グラフィックデザイン、パッケージデザイン、エディトリアルデザイン、ウェブデザイン等を行う。物事の本質に忠実なシンプルで洗練されたデザインが特徴。German Design Award(ドイツ)、A' Design Award(イタリア)など国際アワードを受賞。Shikoku Anthroposophie-Kreis理事。www.yutatakahashi.jp






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