2015年9月22日火曜日

ゲーテアヌム家具工房における追悼の辞『セルゲイ・O・プロコフィエフ氏のライフワーク』2/3


昨年7月26日に亡くなられたセルゲイ・O・プロコフィエフ氏。その無二の理解者であったペーター・ゼルク氏の追悼文を萩原亮一氏の翻訳で紹介。


精神科学の要求

1973年の夏、ヴォロシンの家で、セルゲイ・O・プロコフィエフは初めてある若い人智学徒―Slava Ivonin―に出会いました。詩のインスピレーションは約3カ月前に止んでおり、それはおそらく、セルゲイ・プロコフィエフが人生の最後の日まで共にありつづけることになった、認識に基づく霊界の強力な把握という、人智学へと道を譲りました。魂の問題と、芸術の問題は一時的に退きました。今や問題は、内的修業によって肉体の感覚から自由な思考を獲得することでした。そしてそれは、諦念を伴うものでした。セルゲイ・O・プロコフィエフはその後、彼の全ての力を精神科学と狭義の調査研究に注ぐために、自ら進んで彼の素晴らしい芸術の才能を脇へ押しやりました。

死の直前の私たちの会話の中で、彼は心からゲーテのファウストや、ルドルフ・シュタイナーの神秘劇の何かを作り上げたかったと私に話してくれました。また、魂の内に、レンブラントとクリスチャン・ローゼンクロイツの出会いの「物語」のある重大な構想を抱えていて、その詳細を折に触れ話してくれました。セルゲイ・O・プロコフィエフの詩の才能―実際それは、彼の全ての芸術的あり様であり、本質的には、彼の魂的あり様であった―は、彼の講演や著作における思考の明晰さ“だけ”を知る多くの人にとっては隠された部分でした。

最初の“ムーンノード”の後、そして人生を人智学の奉仕に捧げるという決断をした後、運命の手はセルゲイ・O・プロコフィエフを彼の最初の人智学徒の友人たちに導いただけでなく、また、「最初の孤独な情況」からある程度自由にしてくれただけでなく、彼をウクライナへと導きました。そこである翻訳者からルドルフ・シュタイナーのいくつかの連続講演集を借りることができたからでした。彼はそのためにほぼ600マイルを旅しました。「当時の私には、そのような講演録を獲得するためならどのような、また、どれほど多くの障害であろうとそれを乗り越える用意がありました。なぜなら、人智学は今や私の人生において最も重要な部分になっていたからです」。

彼の歩みの道は、彼が講演録を知る以前に彼をマックス・ヴォロシンの家においてルドルフ・シュタイナーの著作へと導きました。彼はこの順番を、彼自身と、彼の認識に基づくルドルフ・シュタイナーの仕事への向かい方のある本質的な印であると見ていました。彼が初めて読んだ講演は、クリスチャン・モルゲンシュテルンやミヒャエル・バウアーも出席していた、1909年、デュッセルドルフにおけるヒエラルキアについての連続講演でした。


内的な約束

もうすぐ21歳が終わろうとする頃のある眠れない夜に、彼は1924年7月、アルンハイムにおけるカルマ講義を学び、それは彼の存在をあらゆるレベルで捕らえました。「今や私は私が常に仕え、私の全存在を捧げたいと思ってきた霊的存在を知りました。『キリストの顔』、ミヒャエル、現代の精神科学に霊感を与える存在」。また、アルンハイムでルドルフ・シュタイナーは、20世紀の終わりに生じることが求められていた人智学の頂点(発展の頂点:訳者)について、また、1923/24年クリスマス会議を通して流れ込んだ善なる霊の諸力との「同盟」について、そして彼自身の霊界との契約についても語りました。アルンハイム講演の精神において、セルゲイ・O・プロコフィエフは人智学に対する彼の決断を一層強めましたが、それは、その決断が内的な「約束」になるためであり(「私の人生における最初の意識的な、厳粛な約束でした」。)、そして彼はより強力な決意をもって人智学に取り組みました。すぐに彼には、人智学が単なる理念や観点の集積ではなく、ある超感覚的世界の存在であるということが明確になりました。それは、ルドルフ・シュタイナーが1923年に、「私たちの間を目に見えない仕方で動いていく」存在であると言い、そして私たちがその存在に対して「責任感」をもって応じなければならないと言っている存在です。

セルゲイ・O・プロコフィエフはルドルフ・シュタイナーの著作と講演を彼特有の徹底した意志の強さと、それらの分析、大規模な統合を可能にする霊的/悟性的能力をもって研究しました。そして、彼は内的修業に集中して取り組みました。彼の人智学の理解が単に理念的-悟性的なものであるということはあり得ません。実際、彼は人智学の理念を自分の魂の力によって生命に満ちたイメージ、つまりイマジネーション(あるいは少なくともイマジネーションの前段階)へと変容することが可能であること、その必要があることを理解していました。それは、言い換えれば、その変容の過程において自分自身の感情と知覚を取り込むことのできるイメージです。結果として、人智学に対する彼の愛は更に強力で親密なものになりました。生命力を生み出す理念が形成されていったのです。


「礎石の瞑想」とドイツ語

1976年の復活祭に、セルゲイ・O・プロコフィエフは、初めての人智学の活動として、ドイツ語とロシア語で「礎石の瞑想」を読んでいたモスクワの小さな地下グループに参加しました。彼はそれまでドイツ語のその原文を聞いたことがなく、またその言語をあまり理解しませんでした。それにもかかわらず、それを聞くうちに、後に彼が「正真正銘の奇跡」と呼んだ、「深い眠りからの目覚めとしか比較できない」何かが起こりました。「礎石の瞑想のことばの響きの中で、ある完全に新しい霊の世界が私に開かれました。私が聞いたその言葉は、それが運ぶ深遠な思考内容と同様に豊かで霊に満たされていました。言葉と内容が、私にとって初めて、分けることのできない一つのものとして開示されました。その瞬間に、私に対してドイツ語が、ドイツ語だけが新しいキリストの秘教的叡智を担うことのできる言語であると示し、それだけでなく、私の魂の前に礎石の瞑想の内容がその宇宙的-地上的力の全てをもって現れました。[…]霊的な観点からすれば、私が魂の全てをもって感じたことは、[…]人間の言語を用いて生み出されたものでこの礎石の瞑想と並べることができるものはただ一つだけ存在し、それはヨハネ福音書であり、より正確に言えば、その序文とキリスト・イエスの『別れの言葉』だけでした。それらの両方が同じ源泉から生じているということは、私には最初から明確であり、それは、すべての世界を包み込む宇宙的ロゴスの神的領域から生じたものであり、生きるキリストからの直接の開示でした」。

セルゲイ・O・プロコフィエフは、その後の年月の中でさらに明確になりつづけた何かを経験しました。その名を担う福音書と黙示録の著者であるヨハネが、ゴルゴタの秘儀を意識的に体験したただ一人の目撃者として十字架の下に立ったのに対して、ルドルフ・シュタイナーは、19世紀の物質主義の時代にエーテル界におけるキリストの二度目の磔刑、つまり、キリスト存在の再臨の始まりであり、またそれゆえに人間の中でのキリスト意識の復活の始まりの目撃者でした。(後にクリスチャン・ローゼンクロイツとなった)ヨハネとルドルフ・シュタイナーは秘教的キリスト教の二人の偉大な教師であり、霊界において彼らはお互いに並んで立ち、キリスト‐バラ十字的な秘教の教えを導いています。

彼が今や情熱を持って学び始めたドイツ語は、セルゲイ・O・プロコフィエフにとって「現代の秘儀の言語」になり、彼の霊的生活の主要な言語になりました。彼がドイツ語で最初に読むことができたルドルフ・シュタイナーの連続講演は、ナータンの魂とパルジファル(パージファル)についてのもの、キリストと霊界、聖杯の探究について でした。


聖なる十二夜と諸存在

1976年のクリスマス(ドイツ語による「礎石の瞑想」の深い体験をしてから9か月後、23歳の誕生日を迎える少し前)にセルゲイ・O・プロコフィエフは初めて小さな人智学のグループに参加しました。グループは聖なる十二夜を祝うためにMaria Alexandrovna Scriabina(作曲家の娘)の家に集まっていました。その少し前に、Annie JahnとKarla Kiniger(二人はオーストリア出身)がロシアにおける人智学の活動を、聖なる十二夜の祝祭と、ドイツ語とロシア語による礎石の瞑想の音読によって再開していました。セルゲイ・O・プロコフィエフは人智学の宇宙的ヒエラルキアの側面とそれに関係する存在―キリスト、ソフィア、ミヒャエル―を理解する並はずれた能力を持っていました。彼は今やその側面とその深みの全てにおいて取り組みました。彼はこれらの崇高な領域を霊的に身近に感じていました。後に、西ヨーロッパに移り住んでから、彼は キリスト存在の経験へと導く秘儀参入の道としての一年の周期 や 聖なる十二夜と霊のヒエラルキア、天上のソフィアとアントロポゾフィア存在として出版した重要な研究の準備をしました。これらの著書は、これらのテーマについて、1976年に他の人たちと祝ったクリスマス祭から何という短期間の間に、何と遠くまで彼が辿り着いたかを明らかにしました。また彼は、第一ゲーテアヌム建築について、その形態と美の霊的‐宇宙的言語の全てを貫くことのできる非常に特別な能力をも持ち合わせていました。


人智学協会のカルマ

他方で、1970年代の半ばにモスクワで彼は人智学協会の地上的な影の側面にも出会いました―あるいは、運命によってそれに導かれました。彼はマリー・フォン・ジーフェルスの言葉(クリスマス会議についての本の彼女の序文)によって協会の深い「悲劇」について、「ドクター・シュタイナーが私たちのカルマを担ったことが彼にとって何を意味したか」について読みました。「私たちは、おそらく呼ばれはしたけれども、選ばれはしなかった」。そしてそのすぐ後に、彼は1935年のイタ・ヴェーグマンと彼女の友人たちに対する“Denkschrift”(覚書)の原物を見つけました。そこで見たものによって彼は肉体的に病気になりました。病気は二三日続いただけでしたが、烈しいものでした。そして後に(協会のカルマというつながりにおいて)彼はそれが彼の致命的な病気の前兆、あるいは「種子」であったと理解しました。1970年代の半ばにおいて既に、セルゲイ・O・プロコフィエフにとって“Denkschrift”の純粋な歴史的‐悟性的(インテレクチュアル)な理解の仕方は問題外でした。「生じたことの現実は遥か深いところに存在し、これらの問題を単に抽象的‐悟性的な方法で解決しようとする傾向を克服するには苦しみを通り抜けなければならない」。“Denkschrift”を読んだ後の苦しい数週間、数カ月の後、セルゲイ・O・プロコフィエフは魂と霊において彼がルドルフ・シュタイナーのより近くにいるという印象を持ち、今や自分を完全な意味において彼のエソテリックな弟子であると感じました。

2012年3月30日の、ゲーテアヌム大ホールでの印象深い彼の最後の講演(彼はそれが最後になると感じていた)において、引き続き彼は1923年の―火災の後の―人智学協会と共にあるルドルフ・シュタイナーの苦難の道と、この苦しみが最終的にクリスマス会議を満たした愛になるためにルドルフ・シュタイナーの魂の中で辿らなければならなかった変容について話しました。彼は、このプロセスのアーキタイプとして、ゴルゴタの秘儀から聖霊降臨の霊の「すべてに勝る愛」へと続く道を描写しました。

セルゲイ・O・プロコフィエフが1977年に人智学協会に入会したとき、すでに彼にはそれが「知識に基づく共同体」であると見え、それは理解の欠如による、ルドルフ・シュタイナーからの深い離反であると考えました。クリスマス会議の衝動はその深みにおいて理解されておらず、また実際の生活の中でも十分に実践されていませんでした。セルゲイ・O・プロコフィエフは、可能性のある20世紀の終わりの人智学の「頂点」が生じるためには、状況の転換、ルドルフ・シュタイナーからの離反の真の「償い」が必要であると内的に経験しました。これが彼のとてつもなく大きな意志の道―深い忠誠心と真剣さをもって歩まれた道―の出発点であり、彼は可能な限り状況を是正するためにクリスマス会議の形態を理解することを求めました。


「新しい秘儀」の設立

ミヒャエルの時代が明けてから100年後であり、彼が初めてドイツ語で礎石の瞑想を聞いてから3年後である1979年の終わりの四つの講演において、彼は彼の詳細な調査結果をモスクワで発表し、クリスマス会議と精神科学自由大学設立のエソテリックな意味について話しました。彼にとって、クリスマス会議は単に人智学協会の「神秘的事実」であるだけではなく、それはエソテリックなキリスト教のための「ミヒャエルの秘儀」の始まりであり、すべて―人智学協会の内外を問わず―は、その未来に掛かっていました。友人たちがそれらの講演とその中で彼が明確にした事柄を執筆することを求めたので、彼はそれに応じました。そしてそれは、彼にほぼ三年のインナーワークを要求しました。

著書のヴァージョンで彼は、ルドルフ・シュタイナーの人生の歩みをクリスマス会議において生じたことの観点から捉えなおすことを決めました。彼は、クリスマス会議に、「キリストの秘儀」の意味におけるルドルフ・シュタイナーの人生の最も重要な地点として、また20世紀における「物質界」での最も重要な霊的出来事としてそれに接近しました。後に彼は、当時(1980‐82年)ロシアでこのテーマに関心を持っていた人はおそらく二人か三人程度であったろうと言いました。しかし、彼はこの著書に成功し(ルドルフ・シュタイナーと新しい秘儀の設立)、著書は西欧・アメリカでも有名になり、それは彼に大きな個人的リスクをもたらしました。しかし、セルゲイ・O・プロコフィエフの人智学との本質的、実存的関係は、彼が自身の命をリスクにすることをためらわない関係でした。


ルドルフ・シュタイナーとの内的な親近感

1982年に、この作品は、Ursula Preuss(セルゲイ・O・プロコフィエフは彼女と親しい関係を維持し、それは彼女の死を越えて続きました)の慎重な翻訳のおかげで、シュトットガルトで一冊の本として現れました。その序文で彼は、(他のことに加えて)著書が今世紀の終わりが近づきつつある中で、「人智学協会と全ての人智学徒の前に立ちはだかる」「差し迫る任務に向かう意識で」出版されたと書いています。後に彼はルドルフ・シュタイナーの霊的存在、魂的サポートがあったこと、そしてオカルトの教師であり年上の友人としての内的な親近感を感じていたことを語っており、彼はクリスマス会議に取り組む中でその存在を真に、そして強く感じていました。

彼はまた今、人智学協会の運命ともさらに深いつながりを感じるようになりました。「我々の時代に聖杯の騎士であり守護者である者同士が新しい兄弟になることを求める、現代のミヒャエルの共同体を創設すること―私にはそれがエソテリックなレベルにおける人智学協会の主な任務であると思えました」。

本が出版されたときに若干28歳であったセルゲイ・O・プロコフィエフは、疑いなくそれに対して(あるいはその主題に対して)大きな希望を持っていました。その本の終わりの方で彼は、キリストと彼の弟子たちを結ぶ絆がいかに維持されなかったかを語りました。「三度にわたってキリスト・イエスは彼らに語りかけ、そして三度にわたって彼らは深い眠りに落ちていきました。彼らはキリスト存在とゴルゴタの秘儀の宇宙的意味の最も崇高な認識を通して受け取ることができたはずの意識を維持することができませんでした」。それ以後、キリストは「宇宙的な孤独」の中でゴルゴタを経験しました。それ以来、この孤独は新しい秘儀参入の本質的な部分になり、それは、ルドルフ・シュタイナーが完全なレベルで体験した孤独でもありました。時代の転機ということとのつながりにおいては、私たちは人智学協会の中での「クリスマス会議を通しての目覚め」がいつ生じるのかという問題に再び出会うことになります。


「クリスマス会議は私たちの間に存在する!」

セルゲイ・O・プロコフィエフの見方では、聖霊降臨の出来事に向かって弟子たちが辿った道は深い苦痛を伴うものでした。そしてこの意味で、人智学協会は今後、その衝動を実現するためには、ルドルフ・シュタイナーとクリスマス会議との関係を苦痛を通して、霊的に想起すること、霊的に感じ取ること、そして霊的に直観する(見る)ことを通して新たに確立しなければなりません。それは、セルゲイ・O・プロコフィエフが人智学とその協会の「聖霊降臨祭」と表現した何かです。「クリスマス会議は私たちの間に存在します!私たちは、それが揺るぎない現実として存在するところへと前進して行くためのあらゆる努力をするべきなのです!」

最初の著書の中で、彼は礎石の瞑想を「キリストによって完全に貫かれた七重の存在である人間の地上的‐宇宙的イメージ、宇宙的過去から宇宙的未来へと移りゆく人間の、そしてその道程において現在の宇宙的時間の中でキリストを見出すことのできる人間のイメージである」と描写しました。そして彼は、礎石それ自身の存在―ルドルフ・シュタイナーが創造し、ミヒャエルに捧げた愛の正十二面体の石―を聖杯のイマジネーションとの関係の中に持っていきました。個人的会話の中で、彼は当時(著書が完成しようとしていたころ)彼が経験した深い霊的体験について語ってくれました。彼は現代の聖杯のイマジネーションを実際に彼の前に霊的に見たと言います。彼は自分の作品を霊界からの贈り物であると経験しました。そのような内的事件を通過するということ、そして、その思考を初めて思考したことは(ルドルフ・シュタイナーはそれらをよく知っていたので、彼が最初にそうしたというのではなく、師弟関係の中で最初にそれをしたことは)巨大な経験でした。


霊的仕事の継続(発展)を奨励した

セルゲイは、ルドルフ・シュタイナーが多くのことについて、意図的にそれらの全体を語らないようにし、それらを他者の一人一人の努力のために残しておいたのだと付け加えました。彼はただ答えや、あるいは答えが見つかるかもしれない場所を示唆し、彼の弟子たちや同僚たちが彼ら自身の活動のための一種の「刺激」を受け取るようにしました。「結果として、彼(ルドルフ・シュタイナー)が弟子たちにそれらの衝動を取り上げて、その仕事を継続することを期待していたという感情が現れるのであり、また常に彼らがそうすることを彼は奨励しました[…]」。

最後の時期の会話において、セルゲイ・O・プロコフィエフはいくつかの発見を彼の最も深い霊的経験であり、人生の後半の時期における霊的調査を通して受け取った「慈悲の経験」として数え上げました。それらは、ファントム体と復活体の違いの認識、地球の内部を第一ヒエラルキアと悪が働く場所(二つの要素が地理的には近く、しかし「宇宙の真夜中」によって隔てられて存在している)として理解したこと、礎石の瞑想と復活体の明確なつながり、そして第一クラスの19のレッスンを進む中で辿るイエスの意識からキリストの意識へとつながる道です。


近づく次の文化期

西ヨーロッパに移ってから、セルゲイ・O・プロコフィエフは彼の霊的調査の焦点とそれに伴う著作活動の焦点を(他のことに加えて)中央ヨーロッパと東ヨーロッパの運命の要となる問題に移しました。33歳の時に、彼は彼が最も親しみを抱く前世紀ドイツ文化の重要人物、ノヴァーリスについての素晴らしい著書を完成しました。彼にとってノヴァーリスは、近づきつつある次の第六文化期の時代、スラブ民族からその性格を引き出すことになるヨハネ系キリスト教の時代の、未来を指し示す先駆者でした。セルゲイ・O・プロコフィエフのドイツ語との関係は、ノヴァーリスの作品を通して深まり、そして彼はノヴァーリスを中央ヨーロッパと東ヨーロッパをつなぐ橋の建設者であり、彼が最も親近感を覚える人物であると考えました。感謝の気持ちを抱きつつノヴァーリスの著書を完成した後、彼は引き続きその道を歩み続け、関連する諸テーマと集中的に取り組みました。彼は彼の調査結果を、東ヨーロッパの起源と未来の聖杯の秘儀(1989年)、デメトリウス(1992年)、ロシア叙事詩の中の予言(1992年)、中央ヨーロッパと東ヨーロッパの霊的使命(1993年) に出版しました。彼はまたロシア人智学協会の共同設立者であり、その国代表でした。

これらの著書をもって、セルゲイ・O・プロコフィエフは主にその協会メンバーに向き合いました。彼は、中央ヨーロッパと東ヨーロッパの未来の協力についての広く、徹底した理解を確立することを通して彼らを助けようとしました。彼はいかにドイツの「アメリカ化」が進んでいるかを目の当たりにしてショックを受けました。そこでは豊かなドイツ文学と文化の知識が(人智学徒の中でさえも)僅かにしか存在していないこと、また霊的なロシアについても僅かにしか知られていないことを知りました。東ヨーロッパの起源と未来の聖杯の秘儀 の序文の中で彼は書きます。「事件・事実の詳細と現象の真の姿(本質)は、その歴史的‐メタ歴史的パノラマと、東ヨーロッパを導くための権利を獲得しようとして終わりなく戦い続ける善と悪の諸力の意図と目標についての具体的な認識という背景に照らし合わせるときにのみ、現われます」。彼は個々人の独立した判断力が発達することを願いました。そして彼はこのことの絶対的必要性が現在の政治の中に現れていることを最後まで見ていました。


「(発展の)頂点」についての問題

セルゲイ・O・プロコフィエフの他の著作は(1970年代中ごろからそうであったように)近づきつつあった20世紀の終わりと人智学協会について焦点を当てていました。彼は1999年に 人智学協会とアントロポゾフィア存在 世紀の変わり目と人智学協会の使命 [英語訳版のタイトルは、未来は正に今である:新しい千年紀の人智学] というエッセーを出版しました。彼は20世紀の終わりにおいて人智学運動の頂点が存在しなかったこと、そしてそのための霊的な前提が、事実上失われているという「気のめいるような事実」について言及しました。セルゲイが指摘するように、ルドルフ・シュタイナーは人智学の頂点が生じるという宇宙的に重要な可能性(あるいは必要性)が、クリスマス会議の衝動を追及するかどうかに掛かる問題であるとしました。しかし、すでに1924年においてそのようなことを語ることは不可能な問題となり、その後に続く社会破壊の時期には、それは更に困難なことでした。しかし20世紀の最後の数十年の間にクリスマス会議の衝動は、(それと逆の全ての主張にもかかわらず)人智学協会のさらに大きな領域から消えていきました。そして今やその仕事(課題)のための新しい本当の始まりが絶対的な必要となりました。セルゲイ・O・プロコフィエフは、「礎石の上に立つこと」は人智学協会のエソテリックな土台であると言いました。それなしには、全ての会則と付則は内容のない形だけのものになると。新しい共同体の土台、復活の社会力は、その性質上「この世界」のものではなく、それゆえに一人一人の人間によって心(心臓)に据えられねばならない「礎石」に存在しています。それが会員たちの心の中に生きているものであるなら、敵対する諸力はその共同体を貫くことはできません。

さらに、「礎石」は20世紀において融合し、共に働くことを継続しなければならないアリストテレス派とプラトン派の人々の霊的な出会いの場でもあります。アリストテレス派の人々の領域には「宇宙的思考の光」が存在し、プラトン派の人々の領域には「宇宙的イマジネーションの画像的性質」が存在します。しかし、宇宙的-人間的愛によって形成された「礎石」の実質の中で、両グループは一つになることができます。

セルゲイ・O・プロコフィエフはまた、ルドルフ・シュタイナーが「礎石」をエーテル界に創造したことから、それが地上に生まれる前の魂たちと死後のミヒャエルの支持者(弟子)たち(Michaelites)、そしてまた天上のヒエラルキアの存在たちにとっても現実のものであると指摘しました。アリストテレス派とプラトン派の人々は、エーテル界のキリストの時代において、人類の未来のためにその存在たちと共に働くことができます。エーテルの心臓の奥深くに据えられた「礎石」は、エーテルの血液の二つの流れ―ミクロ宇宙とマクロ宇宙の流れ―の源泉であり、人類の使命―人智学協会のミヒャエルの共同体が向き合う使命―を実現するために必要な、その本質的な意味と支援を提供します。


セルゲイ・O・プロコフィエフにとって、これらの全ては霊的な現実であり、経験上の現実でさえもあり、単なる学説ではありませんでした。彼の著書は、彼の悟性の力と瞑想の力の実質を通り越して存在しているものであり、最終的にそれらは彼の霊的‐エソテリックな能力の中で生きているものであり、その広く遠くまで及ぶ視野にもかかわらず、実際それらは(現代)文明の挑戦と未来に奉仕するものでした。彼の素晴らしい作品『赦しの隠された意味』(「1923/24年のクリスマス会議の66周年記念として捧げられ」、1989年に出版された)は、いかに彼が現代の重要な問題、人智学協会にとって極めて重要であり続けている問題を取り上げたかの一つの例でした。


ペーター・ゼルク医学教授 Prof. Dr. med. Peter Selg
1963年ドイツ・シュトゥットゥガルト生まれ。1983年にアビトゥーアを取得し、1986年からヴィッテン=ヘルデッケ大学で医学Humanmedizinを学び始まる。1993年に医師国家資格を取得し学位請求論文が認められる。1993年から2000年までは共同体病院ヘルデッケにて医療に従事しながら小児心理科の研鑽を積む。2000年から2002年まではフライブルクの、応用認識論と医療的方法論の研究所にて共同研究者として勤務。2002年から2005年まではゲーテアヌム精神科学自由大学医学部門の共同研究者。2002年から2006年まではアールレスハイムのイタ・ヴェークマン病院にて小児心理科の主導的な医師として勤務。2006年以降はアールレスハイムのアントロポゾフィーの基礎研究のためのイタ・ヴェークマン研究所の設立と経営に携わっている。また2007年以降は芸術と社会のためのアラヌス大学にて医学的人類学の教授として教鞭をとる。アントロポゾフィー協会スイス理事
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