2015年9月13日日曜日

ゲーテアヌム家具工房における追悼の辞『セルゲイ・O・プロコフィエフ氏のライフワーク』1/3

若き日のセルゲイ・O・プロコフィエフ氏(左)

昨年7月26日に亡くなられたセルゲイ・O・プロコフィエフ氏。その無二の理解者であったペーター・ゼルク氏の追悼文を萩原亮一氏の翻訳で紹介。



親愛なる友人の皆さん、

セルゲイ・O・プロコフィエフは私に彼の葬儀の間に彼の仕事とその意図についての評価を述べてほしいと頼みました。私は彼の望みにこの不完全な描写をもって応じてみようと思います。

セルゲイ・O・プロコフィエフが生まれる三十年前に、ルドルフ・シュタイナーは『ヨハネの黙示録』についての連続講演を、今日私たちがいるこの部屋で行いました。1924年9月12日の講演で彼は述べました。「もし私たちが、時代の兆候を読み解くことのできる鋭敏な人間として、これらの私たちの時代の三つの秘儀―ミカエルの秘儀、キリストの秘儀、そしてソラトの秘儀―の意味で生活(人生)を確立することができるなら、私たちはカルマが私たちに任命する領域で正しく働くことができるでしょう[…]。」1924年9月にルドルフ・シュタイナーは、エソテリックな理事会(esoteric Executive Council)メンバーと司祭職のメンバーを『黙示録』コースに招待し、彼らのためにこれらの講演を行いました。明らかに、セルゲイ・O・プロコフィエフは宗教改新運動の司祭になることはなく、彼はアントロポゾフィー協会のエソテリックな理事会に属したのであり、属しています。セルゲイ・O・プロコフィエフは「時代の兆候」を読み解くことのできる「鋭敏な人間」であり、彼の人生をこれらの三つの秘儀の意味で確立した人でした。結果として彼は終わることのない犠牲を払い続けました。


犠牲の献身 

『黙示録』講演の1週間前に、ルドルフ・シュタイナーはまたこの部屋で強調しつつ語りました。「古代の秘儀の中で生じたような何かが再び生じなければなりません。その何かとは、全人間的な犠牲の献身、彼の仕事に対するその人間の完全なる没頭」です。生涯を通じて、セルゲイ・O・プロコフィエフは正にこの態度を持って人智学のために働きました。不治の病を患っていた最後の三年以上の間でさえもそうでした。「認識の勇気」と「認識の炎」を持って彼は創造的に働き続けました。そして、ルドルフ・シュタイナーが求めたように、彼は任務に対して彼の「全存在」を没頭させました。彼がこの最後の期間に生み出した優秀な、あるいは最高の仕事を考えるだけでも十分にわかります。 それらは、ルドルフ・シュタイナーが彼の弟子たちと同僚たちに非常に強く求めた人智学の発展でした!


キリスト学について

2011年の間に(病気の一年目の間に)「人類の代表」についてのセルゲイ・O・プロコフィエフの重要な仕事 ―ルドルフ・シュタイナーの群像彫刻、人類と地球の霊的目標の開示― が出版されました。その本のカバーの草案が、彼が手術を受けたバーゼル診療所の、彼のベッドのそばのテーブルの上に置かれているのを私はまだ思い浮かべることができます。この作品においてセルゲイ・O・プロコフィエフは、いかにルドルフ・シュタイナーの「根本的に重要な仕事」の一つが地上に「真実に即した」キリストのイメージをもたらすことであったかを、また、いかにそれがルドルフ・シュタイナー自身の自我存在とキリスト存在のイントゥイションのつながりを通して創造されたかを明らかにしました。セルゲイ・O・プロコフィエフはまた、「血液のエーテル化」、「癒しの宇宙的源泉」、そして人間の心臓(心)を奪うための悪の戦いを含む、彫刻についての重要な霊的発見を発表しました。

会話の中でセルゲイ・O・プロコフィエフは、彼がめったにルドルフ・シュタイナーのアトリエとゲーテアヌムのキリスト像に直接出会うことを求めなかった言いましたが、その理由は、彼がそこで受ける印象があまりにも強く、その影響が何週間、何カ月も継続するからだと言いました。それにもかかわらず、死を迎えるほんの間際まで彼はもう一度それらの場所を訪れる力を見出すことを―結局それは実現しませんでしたが―願い続けました。しかし、最後の最後に彼は、ルドルフ・シュタイナーによるキリストの頭部の胸像を病室に持ち込むことを頼みました。

2012年、病気の2年目に彼の600ページに及ぶ著書、そして地球は太陽になる 復活の秘儀について が出版されました。それは、キリストの復活体、最後の晩餐の太陽の秘儀、聖杯の血液のエソテリックな意味、ラザロの目覚め、悪の宇宙的運命、ルドルフ・シュタイナーのナータンの魂との関係についての豊富な新しい洞察に満ちています。


現在の時勢とのつながり

最後の三年間に、肉体的な衰弱が進む中で、セルゲイ・O・プロコフィエフはキリスト学に焦点をあてたテーマ以外の他のテーマについても集中的に取り組みました。彼はデメトリウス、中央ヨーロッパと東ヨーロッパの霊的使命についての初期の著作の新版を準備し、現在の時勢にも通じていました。それまで彼と政治について話したことのない人にとっては、彼の地政学の理解と知識、そして関心は信じがたいほどに驚くべきことでした。死のほんの二・三日前に、彼はウクライナの事件について詳細に語っただけでなく、イラク、イラン、パレスチナで起こっていることについても同様で、これは、(もし彼がそれを選んでいたとすれば)彼が人生において彼の霊的諸力を、実際に探究したテーマや仕事とは全く異なることに使用し得たかもしれないことを明らかにしました。しかし、彼は、ルドルフ・シュタイナーの精神科学を選びました。

病気の間に彼は彼の著書 中央、及び東ヨーロッパの霊的使命 のために、「民族霊」との真の関係の発展について、中央ヨーロッパの将来、そしておおよそ1500年後に始まる次の文化期の準備としてのヨーロッパ東部と共有する運命についての重要な新しい序文とあとがきを書きました。これらの発展は今日いかに無限に危機的な状況に置かれているこことでしょう―そして、ルドルフ・シュタイナーの第一次世界大戦の間の霊的な関わりについても完全に新しい光を投げかけるセルゲイ・O・プロコフィエフの仕事は何と重要であることでしょう!最後まで、セルゲイ・O・プロコフィエフにとってゲルマンの「民族霊」との真の関係はいかに重要であったことでしょう―特有な独特の呼吸の動きに関係を持ち、特定の時期にだけ「受肉する」する「民族霊」と「民族魂」に。これは、それらの存在とのつながりにおいては、特別な挑戦と(その「欠如」において)危険が生じることを意味します。


ミヒャエルの秘儀

晩年においてセルゲイ・O・プロコフィエフは、生涯を通してその準備となる仕事を成し遂げてきた、ミヒャエルの秘儀についての完全に新しい、主要な著作を完成させることができました。かつてルドルフ・シュタイナーの弟子、あるいは同僚として、ミヒャエル存在の様々な側面とその活動について、そのように深く、広く解き明かすことができた人は存在しませんでした。彼が、この現代を指導する太陽の大天使、他の大天使よりもはるかに強力に人間進化の目標につながりを持つ大天使―なぜなら彼はキリストの顔であり、「彼」の諸力を代表するから―にいかに強く結ばれているか! ルドルフ・シュタイナーは、私たち人間は将来ミヒャエルと共に働くことを学ばなければならないと言います。1924年9月28日の最後の演説は、ミヒャエルの支持者たち(Michaelites)に対するミヒャエルについての演説でした。そして、セルゲイ・O・プロコフィエフはミヒャエルとミヒャエルのイマジネーションについての彼の忘れることのできない講演(それが彼の著作につながった)を行ったのは、2011年5月8日、ほんの少し前に彼が不治の病の診断を受けたアーレスハイムのイタ・ヴェーグマン診療所から退院してすぐ後のことでした。


第一クラス

そして最後に、第一クラスについての彼の新しい著書です! 皆さんはセルゲイ・O・プロコフィエフが2009年にミヒャエルの学校(大学)第一クラスとそのキリスト学的土台 についての彼のすばらしい研究を出版したことをご存知でしょう。それは、第一クラスの19のレッスンを通しての、人間の自我について一つの真の観点(視界)、自我が徐々にはっきりとした姿で現れることを可能にする観点(視界)へと導く道についてのものです。そこにはまた、「境域の守護者」とその他の事柄についての深い研究結果も含まれています。出版以来、世界中の多くの人々が、この出版は、ただ単に並はずれた精神科学自由大学の研究であるというだけでなく、何世紀という時間に耐えうるような、第一クラスに取り組むための材料を提供しているという感想を述べています。しかし、セルゲイ・O・プロコフィエフはさらに先へと進みました。ある日、彼の中に、19のクラスレッスンが人間の意識を「キリストの意識」へ変容させるというだけでなく、それらがまた第五福音書との確実な関係を持つものであるという霊的視界が現れました。強い集中力を持って瞑想するとき、第一クラスのマントラは第五福音書の内容を開示するための意識の鍵となり、それらはイエスとキリストの秘儀の深みへと導きます。

35年間の日々継続して行う(病気の間でさえも)第一クラス・マントラの瞑想を通してセルゲイ・O・プロコフィエフは、彼が見出すことができたことについて自分自身で驚きました。長い間、彼にそのように開示された関連性を実際に公開するべきかどうか確信が持てませんでした。1913年10月2日、オスロでの第五福音書についての第二回目の講演の中で、ルドルフ・シュタイナーは言いました。「ただ神聖な控えめの態度を持ってのみ、人はこれらのことを語る決断をすることができます。そこで魂の目に映るものをことばで表現する試みにおいては、人は人間の「見る」という体験における最も神聖な大地の上を歩んでいるという気づきに圧倒されるのだと言えるかもしれません。」彼の著書に取り組みながら、セルゲイ・O・プロコフィエフもまたそれを体験していました。しかし、最後には、彼は彼の洞察を出版する決断をしました。前書きの中で彼は、それが「単純ではない心境」の下で書かれたと最小限の言及をしているだけであり、またそれを「普遍人智学部門の本当のはじまり」であると呼びました。


ルドルフ・シュタイナー

徐々に肉体の力が失われていく中で、セルゲイ・O・プロコフィエフがこの400ページ以上になる著作を生み出すために、いかに彼の最後の力を傾倒させたかを目の当たりにして、そこで生じたことを表現することばや概念を見つけるのは容易ではありません。最後に全てが完了したとき、彼は大きな安堵感を覚え、そして、ルドルフ・シュタイナーの人間としての運命の道、何千年にも亘る様々な文化期を通しての彼の霊の存在の道について、もう一つの素晴らしい研究を口述筆記しました。セルゲイ・O・プロコフィエフによれば、「今日―他のいかなる時にも増して―私たちはルドルフ・シュタイナーのサポートと手助けを必要としています」。

アストリッド・プロコフィエフと共に(彼女は原稿の編集のために最後にもう一度それを彼に読んで聞かせました。)彼は最後までそれに取組み、完成させることができました。第一クラスの本の最後の修正は彼にとって困難を極めました。たとえ彼の秘書、ウテ・フィッシャーの支えがあったとしても、それは物質世界の物質的な仕事のようでした。しかし、ルドルフ・シュタイナーについての研究は彼にとって純粋な喜びでした。「他に何をもって私たちはこの人生を閉じることが考えられますか?」肉体的に解放された、しかし輝く目で、彼は私に微笑みながら言いました。それは彼の霊的な仕事と人生の頂点―「彼の仕事への全人間的な没頭」―でした。


モスクワ

しかしながら、今日私たちは、セルゲイ・O・プロコフィエフが実際にこれらのすべてを達成することができたその特別な精神と意志の力について自分自身に問わなければならないことがあります。私たちは葬儀において語られた彼の人生のイメージの中で、1954年1月の、第二次世界大戦から9年後の、全体主義国家体制の中心地における、彼の困難な受肉について聞きました。この人生のために、セルゲイ・O・プロコフィエフは文化的に非常に恵まれた、輝かしい能力と幅広い教育、そして崇高な、実際かなり崇高な芸術的レベルの家族を見出し、あるいは求めました。それにもかかわらず、彼の愛する祖母リナが長い間スターリンの収容所で苦しんだことも事実であり、また多くの友人や知人たち同様に、制圧的な体制の下で生きねばなりませんでした。後にセルゲイ・O・プロコフィエフは、彼の「ソラトの秘儀」の研究において、この体制の根底にある性格を明らかにし、ドイツの国家社会主義、ロシアのボルシェビズム、レーニン主義、スターリン主義を権力の座に置き、そしてそれら両国の人々を彼らの真の役割から逸脱させてしまったソラトの諸力を明らかにしました。実際、それらの諸力はこれらの役割を正反対のものにしたのです―それは、私たちが現在も、また、今後も継続して担い続けなければならない結果を伴いました。


人智学への道

20世紀の後半と21世紀の初めにおいて、彼の霊の存在(individuality) が自らに課した任務を考えると、この時代への受肉はセルゲイ・O・プロコフィエフにとって特に困難なことでした。子供時代のはじめから、それは深い孤独と苦しみの経験に結ばれていました。キリスト者共同体のロルフ・ヘルツォーク(Rolf Herzog)による伝記的スケッチから私たちはセルゲイ・O・プロコフィエフが彼の内的な霊界とのつながりを秘密にしていたということを聞きました。子供のころから、彼はこの人生が初めての地上の人生であると感じたことがありませんでした。そして子供時代の中ごろ(9歳の時)に、彼の祖父Leonid Feinbergによって音読されたワーグナーのオペラの歌詞を通して聴いたパージファルの物語によって秘教キリスト教を再発見しました。しかし、現代においては、一体どこでどのようにしてそのようなものとのつながりを見つけることができるでしょうか?

私たちはまたセルゲイ・O・プロコフィエフにとってのクリミアのマックス・ヴォロシンの家の重要性についても聞きました。14歳のころから彼はバケーションの間にこの家の客となることができ、ヴォロシンのその豊富な図書庫においてルドルフ・シュタイナーの著作を発見しました。彼はそれらを静かに一人で、また霊的な孤独の中で、読み始めました。それは、高次の世界の認識とその獲得(いかにして超感覚世界の認識を獲得するか)からはじまり、それは彼に、長い間求め続けてきた現代における秘教キリスト教についての根本的な疑問の答えを与えてくれました。「その本の中にキリストの名はほぼ全く触れられていませんでしたが、それを初めて読んだ時から、私には、私が今手にしているのは、人間の魂のキリストへの道の描写であるということが明らかでした。私たちの時代の霊によって与えられたものであると」。彼はそれについてほとんど、あるいはまったく語らなかったかも知れませんが、その本は、その後彼が完全に一貫した態度をもって歩み続けた内的な道のガイドとなり、助言者になりました。

ヴォロシンの家で、彼はまたルドルフ・シュタイナーの神秘学概論をフランス語で読みました。その中で彼はバラ十字の瞑想に出会い、―それは彼に深い衝撃を与えました―また宇宙と人間の進化の中間点においてキリスト存在に出会いました。これは彼に非常に深い感動を与えました。「ここでルドルフ・シュタイナーが語ることのすべては私がすでに知っていたことでしたが、私はそれ以前にはそれを思考の形で表現することができませんでした。それまで私の魂の内に、全般的な、不明確な感情として生きていたものが思考の明晰な意識によって貫かれました。」セルゲイ・O・プロコフィエフは豊かな内的生活を持っていましたが、当時それは彼の身近な生活においてはほとんど完全に隠されていました。そして彼は多くの神秘的体験を伴う霊的探究の、強烈な思春期を経験しました。


若き日の詩

1971年から1973年の間、17歳から19歳の時、彼は非常に驚くべき詩を書きましたが、それらは闇から光へと向かう道について、霊的な戦いと黙示録的な出来事についてのもので、彼はそれを深い正直さとドラマチックな内的力をもって書きました。「まるでそれらの詩が私を起こしにやってきたかのように、私は夜中に強力なインスピレーションによって起こされました。私はそれらのことばとイメージをすぐに捕らえるために机に駆け寄りました―しばしば、完全に出来上がった形で私の中に現れた詩を紙に書き留めました―そして多くの場合、詩は一つ以上でした。それはまるで、それらの詩が自分から紙の上に流れ出ていくようでした。それらは、『魂の火事』(‘soul on fire’)の詩でした。」これらの詩は、彼が病気の療養中にモスクワの彼の両親の家を訪れて再発見するまでは、家の食器戸棚の中に隠れたままでした―彼は、それらが書かれたとき、誰にもそれらを見せませんでした。彼はそれらを出版する決断をし、昨年、モスクワの人智学とつながりのない出版社から、魂の神秘的炎というタイトルの400ページ以上にもなる見事な本として出版されました。それにはセルゲイ・プロコフィエフとロシアの著名な詩人、ソフィア・プロコフィエヴァ、彼の母親の序文が付されています。彼女は他のことに加えてこう書いています。「詩の世界において、私はそれほど強力な詩の開示が、それほど短期間の間に一つの魂から生み出された例を他に知らない」。かつて、セルゲイ・O・プロコフィエフは私に、それほど長い間彼と共にあった詩のインスピレーションが突然19歳の時に止んだ時、彼がいかに悲しんだかを話してくれました。彼は気も狂わんばかりであったと言います。少しの間、彼は詩を書き続けようとしましたが、詩の声はもう聞こえませんでした。そして、彼の最初のムーンノードの時期(18歳と7カ月:訳者)に、ルドルフ・シュタイナーの著作を読むだけでなく、人智学を彼の人生と運命の最重要な課題であると、魂の最も深いところから決断しました。「その決断がなされ、私が、私の人生が新しい意味と目標を受け取ったことを完全な力をもって経験してはじめて、私は運命の導きによってそれまでの孤独な状況から抜け出すことができました。私はそれまで私の魂の表面下にあった、そして今や精神科学のおかげで完全に意識的な現実となったそれらの理念に仕えるための最初のステップを踏み出そうとしていました」。



※以上の文章はNPO法人日本アントロポゾフイー協会の会報『シュタイナートゥデイ』に掲載されたものですが、タイトルイメージの使用を許可していただいたコンスタンツェ・ブレフィン・アルトさんの提案もあり、固有名詞を一部差し替えています。



ペーター・ゼルク医学教授 Prof. Dr. med. Peter Selg
1963年ドイツ・シュトゥットゥガルト生まれ。1983年にアビトゥーアを取得し、1986年からヴィッテン=ヘルデッケ大学で医学Humanmedizinを学び始まる。1993年に医師国家資格を取得し学位請求論文が認められる。1993年から2000年までは共同体病院ヘルデッケにて医療に従事しながら小児心理科の研鑽を積む。2000年から2002年まではフライブルクの、応用認識論と医療的方法論の研究所にて共同研究者として勤務。2002年から2005年まではゲーテアヌム精神科学自由大学医学部門の共同研究者。2002年から2006年まではアールレスハイムのイタ・ヴェークマン病院にて小児心理科の主導的な医師として勤務。2006年以降はアールレスハイムのアントロポゾフィーの基礎研究のためのイタ・ヴェークマン研究所の設立と経営に携わっている。また2007年以降は芸術と社会のためのアラヌス大学にて医学的人類学の教授として教鞭をとる。アントロポゾフィー協会スイス理事


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