2014年8月4日月曜日

浅田豊:第一次世界大戦勃発前後のルドルフ・シュタイナー 3/3

Walter Johannes Stein (1891-1957)

戦争という非常事態は、誰もが望まないことだと言える。しかし、ひとたび起きてしまうならば我々は、今度は「その中で如何にして生きるか」を問われることになる。若きヴァルター・ヨハネス・シュタインは時代の激動に、どう立ち向かったのか?


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この危機の最中に、一人の若いオーストリア人がドルナッハにやってきた。彼の名はヴァルター・ヨハネス・シュタイン、1891年生まれだから、当時23才だった。母ヘルミーネの影響でシュタイナーに引きつけられたシュタインは、当時手に入るシュタイナーの著作、講演集をすべて読み、研究した。1913年の夏、ミュンヘンで上演されるシュタイナーの神秘劇を見るために、シュタインはミュンヘンにやって来た。この上演はアントロポゾフィー協会会員に限られていたので、まだ会員になる決心のついていなかったシュタインは、あっさり断られてしまう。しかし必ず神秘劇を見ようと決心していたシュタインは、直接シュタイナーと話し合う。「そう、シュタインさん、この上演は会員に限られています。しかし、まず会員になって、上演が終わったらすぐに脱会したらいいでしょう」とシュタイナーは提案した。これに納得したシュタインは、神秘劇を見ることができた。上演のあとシュタイナーは「さあ、シュタインさん、上演は楽しめましたか?」と訊ねた。シュタインは勿論脱会しなかった。その後、すでにドルナッハに来てヨハネ館建築に携わっていた母ヘルミーネを追って、シュタインもまたドルナッハにやって来たのである。うち棒と鑿をもらい、アルヒトラーフ(柱と柱を繋ぐ上部の壁面)を彫刻した。

スエーデンからドルナッハに帰ってきたシュタイナーは、7月26日に『色彩の創造的な世界』と題する講演を行うが、これが、第一次世界大戦勃発前の最後の講演となった。シュタイナーは最後にヨーロッパの危機的状況に言及し、この講演を次の言葉で締めくくっている。「本当にこの憂愁の日々、そして今のように、全く真剣な様相を呈している一刻一刻においても、私たちは、私たちの霊学の神聖な事柄について語ることができる、いやむしろ語らなければいけないのです。何故なら、この霊学の太陽が今日まだこんなに小さく見えようとも、それが成長し、もっともっと成長し、より輝き、さらに輝くようになることを私たちは確信できるのです。平和の太陽、愛と調和の太陽として人間たちの上に輝くであろうことを。/親愛なる友人の皆さん、これはまた、真剣な言葉です。しかしそれは、真剣な時間が私たちの窓から顔を見せるとき、まさにそのとき、霊学の親密な事柄を、本当に魂の力を持って、本当に心から考えることを正当化してくれる言葉でもあります」。(注14)

シュタインもまた、この講演を聞いていた。そうこうしているうちに、オーストリアの国境が閉ざされたというニュースが届いた。オーストリアからの召集令状がスイスには届かないことを考え、シュタインは、自分は帰国するべきではないかと感じた。このことをシュタイナーに相談すると、彼はシュタインに「あなたの感情の声に従いなさい」と忠告した。シュタイナーはラスプーチンとは違って、人間の意志には直接働きかけなかった。むしろ思考と感情に働きかけ、各個人の自由な意志の選択を非常に高い価値と見なした。その後シュタインはドルナッハを去る。バーゼル駅に着いたシュタインは、これがもう最後の別れになるかもしれないと思いあたり、電車が出るまでの15分を利用して、バーゼル駅のレストランで、シュタイナー宛の次の手紙を書いた。

誠に尊敬する博士

オーストリアとの間の電報と電話が分断されたという報告が入っています。連絡のつく場所にいることが私の軍隊の義務ですから、召集令状がなくとも、ウィーンに帰ることになります。誠に尊敬する博士、あなたと話をする機会はもうありません。ですから、ここに記すのは、あなたに対する、感謝の僅かの言葉にすぎません。それが、深く内的に体験された感謝の気持ちの外的な印であって欲しいと思います。あなたの講演の最後の言葉は、まさに別れの言葉、意志を促し、激励する言葉でした。私はそのように感じ、受け取りました。今私に向かってくる未来に対して、私が今、確固として、揺るぎなく向かっていけること、それは、誠に尊敬する博士、すべてあなたのおかげです。どの場所に配属されるかはわかりません。しかしどの場所であろうとも、霊学が私に与えてくれたすべての理想、すべての美しさと偉大さを私が存分に発揮するつもりであることは、自覚しています。そしてもし感謝の気持ちが私に意志の力を貸してくれるなら、ある人格と、ある理念と、そしてある包括的な生き生きとした世界内容に同時に妥当する気持ちをもって、あなたに感謝の念を持つものです。
感謝と尊敬を込めて
あなたの
とても忠実な          
ヴァルター・シュタイン

シュタイナーはその後の講演の中で何度かこの手紙に言及している。困難な状況の中にあって、霊学の与えてくれる力、霊の勝利に対する確信の見本としてこの手紙について語っている。その後シュタインは、1919年にシュトゥットガルトで創設された自由ヴァルドルフ学校(シュタイナー学校)のドイツ語と歴史の教師になる。(注15)

大戦の勃発は、ドルナッハの生活と建築活動に何をもたらしたか。スイスは中立国だったから戦禍を免れたと今日単純に考えがちだが、実際はそう簡単ではない。事実ドイツは戦争初期に中立国ベルギーに侵攻してからフランスと戦っている。この時期のスイス、特にバーゼル(ドルナッハはバーゼルの南、9キロほどのところにある)の状況はどうだったのだろうか。

バーゼルは国境の町であり、ドイツ、フランスに歩いていける便利なところにある。スイスの都市であるだけでなく、ライン川上流地域の文化的、経済的、社会的センターであり、その意味で国境にとらわれない、広い地域の中心地であった。事実、1914年以前は、パスポートも持たずに検査も無く、自由に国境を越えることができた。この意味でバーゼルは、当時本当の国際都市だった。1914年の開戦により急に国境は閉鎖され、この後遺症は今日まで残っている。直接の戦禍こそ免れたが、バーゼルはヨーロッパ大戦から大きな影響を受けた。(注16)

まず、イタリア人避難民の通過である。開戦前、フランス、ドイツ、およびベルギーに住み、働いていた20万人ものイタリア人が国外退去を命じられ、取る物も取りあえず、スイスを通ってイタリアに帰っていった。そのうちの何万人かがバーゼルを通過していった。僅か数日の間にこのイタリア人労働者が、妻子をつれて、バーゼルの町にあふれた。僅かの荷物を抱え、多くは金も食料も無く、48時間、何も食べずに歩いて来た者もあった。イタリアに向かう電車に乗るまでの日々をバーゼルで過ごしたが、バーゼル市民の救援団体は、食料と寝る場所を提供した。バーゼル政府の発表によれば、この4日間にバーゼルは32,000人のイタリア人に食事を提供した。このしばらくあと、イタリア領事館から、公に感謝の言葉が述べられた。

イタリア非難民は北から南へとバーゼルを通過していったが、スイスに住んでいたドイツ人は逆に、招集されて北に向かった。バーゼルの市街を歌いながら行進し、北に向かって行くドイツ人グループの写真が残っている。スイスは武装中立の国だから、第三国の戦争に加担することはないが、敵がスイスにせめて来れば抗戦する。そのためには兵を組織しなければいけない。ついに戦争が始まった8月初め、スイスでも軍隊の招集が行われた。国境は封鎖され、8月6日の昼間には、バーゼルの町中にある中央橋に爆薬が仕掛けられた。ドルナッハでも、アルザスからの大砲の音が聞こえた。フランス軍がスイスに進入してくるという噂が流れ、バーゼル、アルレスハイム、ドルナッハあたりも、戦場になるかもしれない状況であった。(注17)

ドルナッハ周辺にもたくさんのスイス軍兵士が配属されていたが、兵士の中には、ヨハネ館に興味を持つ者も多かったので、そのためのヨハネ館ガイドツアーも行われた。シュタイナー自身も兵士たちを引き連れてヨハネ館ツアーを行ったことがあった。シュタイナーは兵士たちに親切に対応し、建築の細部を詳しく示し、足場に上って、様々なフォルムを解説した。兵士たちは大変満足し、慎重に行動し、タバコも吸わなかった。ホールのなかでは、口を開けて、巨大な柱を観察していた。ガイドツアーは何度も繰り返され、ヨハネ館は兵士たちに大変強い印象を与えた。(注18)

さて、初めに予定していた3回分はこれで終わりになってしまったが、あと一回、号外として、8月中旬の『サマリア人講座』(救急看護コース)について書いてみたい。これについては次回。

(続く)

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  • 注14 Vortrag vom 26. Juli 1914, GA 291, Basel, 4. Auflage (Taschenbuch) 2011, S. 108.
  • 注15 シュタインについては、主に次の本の記述を参考にした。Johannes Tautz: W. J. Stein, Eine Biographie, Dornach 1989.
  • 注16 Tages Woche, Basel, 4. Jahrgang, Freitag 20. 6. 2014, S. 9.
  • 注17 この時期のバーゼルの状況については主に次の本を参照した。Robert Labhardt: Krieg und Krise, Basel 1914 – 1918, Basel 2014, S. 41ff.
  • 注18 Andrej Belyj: Geheime Aufzeichnungen, Erinnerungen an das Leben im Umkreis Rudolf Steiners, Dornach, 2., verbesserte und erweiterte Auflage 2002, S. 120ff.


浅田豊(Yutaka Asada)
1952年神奈川県三浦市生まれ。東京でドイツ文学を学ぶ過程でルドルフ・シュタイナーの思想と出会う。1977年ドイツに渡り、シュタイナーの治療教育を学ぶ。1980年よりスイス在住。治療教育を数年間実践したあと、ゲーテアヌム図書館、後に書店に勤務。その間にオイリュトミーとオイリュトミー療法を学ぶ。現在は、チューリッヒ近郊の大人の障がいをもった人たちのホームで、オイリュトミーとオイリュトミー療法を実践する傍ら、ゲーテアヌム書店にも勤務。
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