2014年7月10日木曜日

竹下哲生:シリーズ混沌の創造性——灰と砂 ½



八月末に徳島で開催される四国アントロポゾフィークライス創立七周年記念講座『渦:混沌の創造性』に先駆けて、混沌(カオス)について考察する。

ここ数年、薪ストーブがブームだと言う。今から四、五年前くらいから、ちらほらとメディアで目にする様になり、震災以降は——エネルギー問題に対する関心の高まりからか——更に注目される様になった気がする。


火を点ける

暖炉に火を点けることは楽しい。先ずは太い薪を積み木の様に並べ、雪で作った「かまくら」のように手前に空洞を残しておく。次に新聞紙を丸めて拳大の玉を作って「かまくら」の入り口に置き、その上に——薪割りの時に出て来た——木の皮や、或いは使用済みの割り箸の様な細い木を立て掛けて置く。これで準備万端整った。 新聞紙に火を点けると、火は瞬く間に丸めた新聞紙全体に行き渡り、赤い炎を上げる。そして木の皮や割り箸、或いは薪とは言えない様な木っ端に着火することが出来れば、もう後は安心だ。薪が充分に乾いているなら、木っ端や割り箸が燃え尽きる前に薪に火が点くだろう。 しかし薪に火が点いても暫くは、煙を我慢しなければならない。何故なら煙突は未だ暖まっておらず、充分に排気をする状態に無いからだ。せっかちな人は息を吹き掛けて、炎に充分な酸素を与えようとするだろう。そうすれば炎で煙突内の空気は暖まって浮力が生じ、煙は外へと排気されることになる。そして炉内の気圧が下がるので、空気取り入れ口からは新鮮な空気が入って来ることになる(煙突効果:stack effect)。 やがて炎は薪を回り込む様に燃え上がり、パチパチと音を立てて良く燃える。そして真っ黒な炭になると、薪は音を立てて燃えることも、また大きな炎を上げることも無くなる。しかし、そうなると炎は安定し、持続的に燃える様になる。それまでの様に炎は明るい光を出すことはないが、暗い赤い焰から発せられる熱の量は、決して少ないものではない。


火が消える

そこから更に時間が経つと、それまで辛うじて薪の姿を保っていた炭もバラバラになり、所々が赤く燃えているだけになる。何もかもが燃え尽きて灰だけが残っている様に見えても、その中でも火は未だ燻っている。だから少し揺すって灰を下に落としてやると、また赤々と燃え始める。灰に埋もれていたので、酸素の供給が滞っていたのだ。 “焼け木杭に火が点く”などと言うが、実際一度燃えた木はよく火が点く。そして、この「焼け木杭」は未だ火が消えていないので、単に通気してやることで——着火することなく——再び燃え始める。ライターやマッチによる簡単な着火が日常的なものとなる以前は、こうやって「種火」を消さずに維持していた。夕食の支度に使った囲炉裏の火は、暖をとった後に灰で覆われて翌朝を迎える。そして明くる日の朝食は、この消え残った種火に薪を加えて作られるのだ。この様に灰を使って種火を保管することを埋火(うずめび)と言う。 どんなに種火を大切にしても、新しい薪をくべない限り火は何時か燃え尽きる。そして何もかもが燃え尽きた後に残るのは、さらさらとした灰だけなのだ。


灰の色彩

「灰色の人生」という言葉が象徴している様に、灰は色彩を持たない、無味乾燥なものだと理解されている。しかし、それは灰について何も知らない者が言うことだ。 例えば少しでも茶道に精通している者にとって、灰は立派なお茶の「道具」である。実際、炉に使う灰は篩にかけて細かな炭と選別され、更に水洗いで灰汁(アク)を取られる。風炉灰を得る為には更に目の細かい篩を使う必要が有るし、真っ白な灰が必要な時には藤の木を焼いて作った灰が使われる(藤灰)。詰まり灰には「色彩」が有るのだ。 実際、樫や白樺の灰が黒っぽいのに対して、トネリコや楡の灰は随分と白い。そして異なる木から得られた灰を見比べてみると——その微妙な違いの中で——灰を「赤い」や「青い」とすら言うことが出来るのだ。また椿の灰は媒染剤として草木染めに適しているし、陶芸に使われる釉薬は灰を原料としている。そのくらい灰は「色彩豊か」なものなのだ。そして、それに気が付かないのは単に、我々が灰のことを何も知らないからに他ならない。 こう考えてみると、改めて「灰とは何か」という疑問が生じる。そこで辞書で調べてみると、それは「何かを燃やしたあとに残る物質」だと書かれている。そういった意味で灰とは「燃え尽きたもの」であり、また「これ以上燃えないもの」だと言えるかもしれない。 更に灰という実質を「現象学的な立場から」考えてみると、興味深い事実が浮かび上がる。そして幸いなことに、現象学的な考察に化学的な知識は余り必要とされないのだ。


灰の形成

様々な物から灰を得ることが出来るが、ここでは差し当たり「木を燃やして得られる灰」について現象学的に考えてみたい。そして木を燃やす前に考えなければならないことは、その「燃える木」が一体何なのかということである。何故なら道端の石を拾って火を点けても、それが燃えることはないからだ。石は燃えないけれども、木は燃える。鉱物は燃えないけれども、植物(有機物)は良く燃えるのだ。 樹木を含む植物は地中から水と、そして空気中から二酸化炭素を取り入れて、光合成をして自らの体を構成する。だからこそ植物は基本的に、炭素と酸素と水素から成る「有機物」だと考えられる。燃焼過程で植物を構成する有機物の炭素は、空気中の酸素と結合して二酸化炭素に成り排出される。そして水素も同様に酸素と結合して、水(水蒸気)として煙突の外に出て行く。詰まり、この事実を極めて単純に以下の様に表現することが出来る:

木は水と空気から成り、燃やすとまた水と空気に戻って行く。

それでは、木を燃やした後に残る灰とは一体何なのか。それは水でもなければ空気でもなく、敢えて言うならば「土」である。実際、灰の成分は有機物ではなく無機物、即ち鉱物だ。木を燃やして残る灰は、実に僅かである。そして、その僅かな分だけが植物の「土」的な部分なのだ。そういった意味で植物は、本質的に水と空気から成っていると言っても過言ではない。 更に言うならば、光合成に熱と光は不可欠である。だからこそ植物を水と空気と、そして熱と光が凝縮したものだと考えることが出来る。実際、木を燃やした時には、そこに閉じ籠められていた熱と光が解放される(少なくとも古代のギリシャ人は、こういう説明を聞いて納得しただろう)。


ミネラル

我々が口にする食べ物は基本的に——大部分を占める水分を除けば——蛋白質と脂肪と炭水化物という三つの栄養素から成り立っている。そして、これらは有機物なので、既に述べた様に燃やすと空気と水に戻ってしまうが、しかし灰は残る。だからこそ食物中に含まれる鉱物(ミネラル)は一般に、第四の栄養素である灰分(かいぶん)として認知されている。人間が口にする「食べ物」のミネラルは——水分も含めた重量比にすると——全体の1%にも満たないが、その価値は議論の余地がない。 実際、現代に於ける栄養摂取と食生活の問題を考慮する時、特に鉄や亜鉛といった微量のミネラル不足による「隠れ栄養失調」の問題は避けて通れない。詰まり空気や水のエレメントに加えて、植物の「土」的な側面もまた、人間にとって本質的な意味を持っているのだ。今のところ、この「ミネラル不足」の問題はサプリメントの摂取によって回避されようとしているが、こういった「対症療法」がどこまで有効かは、甚だ疑問である。 野菜が「美味しい」ことには誰もが興味を持つが、自分が食べる野菜に体が必要としているだけのミネラルが含まれているのか、或いは、そのミネラルが体を養う為に良好な状態にあるのかということは、残念ながら未だ殆ど顧みられていないのが現状である。


遠くなってしまった「土」

こういった現状は現代特有のものに思える。何故なら上にも挙げた様に、人々が未だ囲炉裏を囲んで生活していた時代は、「灰」というものは日常の一部だったからだ。しかし現代の日本人にとっての灰とは、「燃えるゴミ」なのか「燃えないゴミ」なのか区別が付かない、奇妙な代物でしかないのだ。 実際、仏壇の香炉に溜まった線香の灰を、どうやって処理して良いのか分からないという相談がネット上に存在する。答える側は気楽なもので「灰なんか庭に捨てれば良いじゃないか」と言うが、相談者は「自分の家は高層マンションで、灰を捨てる庭も無い」というのだ。言うまでも無く、灰はゴミとして自治体に処理して貰うことは出来る。しかし、つい一昔前まで灰とは、庭に捨てておけばそれで良いものだったのだ。 恐らく同じことは、野菜についても言えるだろう。何故なら人間は、つい一昔前まで野菜の中に含まれているミネラルが、充分かどうかの心配をする必要が無かったからだ。同様に家の中で何か——それは薪でも線香でも良いのだが——を燃やした時の灰を、どうするべきかを思い悩む必要は無かった。しかし現代に於いては正に、この「土」との関わりが問題として浮上しているのだ。




現代人にとって灰とは、全く理解不能なものである。実際、色んな人に灰に関する話をしていると、灰と砂の区別が付かない人も珍しく無いことに気が付く。そう考えてみると、灰と砂の共通点について考えてみることは興味深い。先ず言えることは、灰も砂もどちらの無機物で、尚且つ粒状であるということだ。そして、どちらも乾燥していて、実に「鮮やかではない色」をしている。詰まり、それは「つまらないもの」の象徴なのだ。だからこそ興味の持てない対象を前にした時には、「砂を噛んでる」様な気分だと慣用的に表現されることも有るのだ。 そして灰と砂の最も本質的な特徴と呼べるものが、「形が無い」ということである。これは日常に於いて余り意識しないことだが、我々の生活は実に様々な「形」に満たされている。パソコンやスマートフォンには必ず決まった「形」が有るし、本にせよミネラルウォーターにせよ服にせよ、Amazonで買うものには殆ど全て「形」が有る。そういった意味では我々がお金を出してまで手に入れなければならないもので、「形が無いもの」と言えば、水道水ぐらいのものだと言ったら大袈裟だろうか。 何れにせよ我々の日常は「形」に溢れている。それは換言すれば「出来上がったもの」だと言うことも出来るだろう。詰まり何らかの生成過程があり、そして、その最後の段階として「形」が現れるのだ。だから目の前に有るミネラルウォーターの瓶は、それが作られた工場の中では赤く熱せられてグニャグニャだっただろうし、それより前はガラスですらなかった筈だ。そうガラスの原料は珪砂、即ち「砂」なのだ。


生成を把握する力

日常的な意識は「出来上がったもの」にしか興味を持たない。だから無印良品で御洒落なグラスを見つければ興味が湧くが、砂場の砂には興味が無い。何故か。それは我々に創造性が欠如しているからに他ならない。 我々の意識は「既に出来上がったもの」にのみ興味を持ち、「未だ何でも無いもの」は素通りしてしまう。生きて脈打っているものは全て無視して、死んで凝り固まったものにのみ興味を抱く。それは我々の中に「生きたものを生きたものとして捉える力」が無いことによる。ドイツの詩人ゲーテは、以下の様に述べている:

Die Vernunft ist auf das Werdende, der Verstand auf das Gewordenen angewiesen; jene bekümmert sich nicht: wozu? dieser fragt nicht: woher? -Sie erfreut sich am Entwickeln; er wünscht alles festzuhalten, damit er es nutzen könne. Johann Wolfgang von Goethe
理性は「成り行くもの」を、そして悟性は「成ったもの」に頼らざるを得ない;前者は「何のために?」に頓着せず、後者は「何処から?」を問わない。——理性は発達と進化を喜び;悟性は——実用性の為に——全てを固定することを望む。 ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
http://goethe.blog.so-net.ne.jp/2013-11-06

生成するものを把握することが出来る力——ゲーテはそれを「理性」と表現しているのだが——は、同時に創造的でもある。そういった意味で卓越した自然科学者であった彼が、同時に傑出した詩人であったことは驚くに値しない。彼の自然「認識」は、詩作という「創造」へ向かったのである。


子ども

生きているものを、生きたままで把握することは難しい。だからこそ我々は、生きているものを一旦「殺して」から頭に入れることに慣れているのだ。例えば「食べ物」という生きた概念は把握することが出来ないので、取り敢えず「カロリー」という死んだ概念に置き換えてから思考を始める。我々は人や動物を殺すことには躊躇があっても、概念を殺すことには容赦が無いのだ。 しかし子どもは、生きたものに生きたまま関ろうとする。但し、この場合は上に述べた「理性」による認識は伴わない。そうではなく子どもは、「認識」を伴わない「創造」だけを行う。創造する為に必要なものは「未だ形の無いもの」であって、「既に出来上がったもの」ではない。そういった意味で子どもにとって、公園の砂場ほど楽しい玩具は無い。何故なら、そこには形らしい形が何処にも無いからだ。詰まり理性の無い大人にとって最も興味を持てない砂の様なものこそが、創造性に溢れる子どもにとっては最も興味深い対象なのである。 砂場で遊ぶことを辞め、学校の机に座って勉強を始めることは、確かに「大人への一歩」である。何故ならば、それは無垢なる「創造性」から合目的的な「悟性」への成長と呼べるからである。しかし人間の成長は、便利で快適なものを作る「悟性」を手に入れた時点で終わりではない。そうではなく、その更に向こう側には「理性」による意識的な創造の世界が広がっているのだ。


砂場と水飲み場

しかし裏を返せば、子どもにとっての砂場とは掛け替えの無い「教育の現場」であると言える。何故なら子どもに「出来上がっていないもの」を与えることは、子どもの想像力(ファンタジー)を培うことになるからだ。完成された奇麗な玩具を与えるならば子どもは「喜ぶ」だろうが、それによって子どもが「成長する」ことは無い。 ところが現代では衛生的な配慮から、子どもから砂場さえも奪われようとしているのだ。生活の中の灰や野菜の中のミネラルと同様、ここでも現代の人間は「土との関係性」を失いつつある。ところが、その一方で子どもたちは、内的な世界に与えられる土のエレメントには苦しめられている。それは情報化された現代社会に於いては何処でも触れることが出来、剰え学校で教えられてさえいる「死んだ概念」に他ならない。 自分で種を植え、そして野菜を収穫するという「生きた体験」を全く持たない者でも、食べ物について語る時にはカロリーという「死んだ概念」を口にすることは、今ではもう普通のこととなっている。砂場で「土」に触れたことすら無い者も、頭の中は死んだ概念で一杯なのである。 子どもは手足で「土」に触れ、心は水の様に流れる「生きた概念」で満たされたいと望んでいる。学校は子どもにとっての、心の水飲み場であるべきなのだ。


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竹下哲生 Tezuo Takeshita
1981 年香川県生まれ。2000 年渡独。2002 年キリスト者共同体神学校入学。2004年体調不良により学業を中断し帰国。現在自宅で療養しながら四国でアントロポゾフィー活動に参加。共著『親の仕事、教師の仕事〜教育と社会形成〜』訳書『キリスト存在と自我〜ルドルフ・シュタイナーのカルマ論〜』(SAKS-BOOKS)、『アトピー性皮膚炎の理解とアントロポゾフィー医療入門』(SAKS-BOOKS)『三位一体』(キリスト者共同体・東京集会)



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