2014年7月29日火曜日

竹下哲生:シリーズ混沌の創造性——沈黙の可能性 2/2


八月末に徳島で開催される四国アントロポゾフィークライス創立七周年記念講座『渦:混沌の創造性』に先駆けて、混沌(カオス)について考察する。


植物は水と空気(二酸化炭素)を結合(光合成)させ、自らの体を有機物として形成する。そうして出来た木を燃やすと、水と空気から出来た実質である有機物は全て水と空気に戻り、元居た所へと帰って行く。こうして何かが燃えた後には、灰だけが残るのだ。 いや灰もまた「残る」のではなく、或る意味では「帰って来た」と言うことも出来るだろう。何故なら灰はミネラルであり、それを植物は地面から得ているからである。そして灰はどれも同じ様な灰色に見えるが、実際は微妙に異なる。何故なら植物が有しているミネラルの割合や量は、植物の種によってそれぞれ異なるからだ。詰まり灰の成分の違いは、植物の種によって異なる「大地との関係性」を表現しているとも言えるのだ(灰の「土的な特性」に関しては、前回既に述べられている)。


硫黄プロセス

灰を形成する過程、物が燃焼して最後に灰が残る変化を全てまとめて「硫黄プロセス」と表現することが出来る。これは中世の錬金術に由来する概念だ。 日常的な意識に於いて「錬金術」とは、単に如何わしいものでしかないが、それでも現代に於いて「様々なレヴェルに於ける燃焼」について考えることは全く可能だ。例えば火が燃えることを硫黄プロセスと呼ぶならば、植物が育つこともまた一種の硫黄プロセスと呼ぶことが出来る。実際、日本語では植物が芽吹くことを「萌える(もえる)」と表現する。詰まり日本語の精神に於ける発芽とは——物理的な世界ではなく——生命の領域に於ける燃焼なのだ。 火が上に向かって燃える様に、植物もまた上に向かって萌える。そして火の下側が丸い様に、植物の葉もまた下に行くほど丸く、また炎の先端が尖っている様に、植物の葉も上に行くほど尖っている。そして花は燃え盛る炎の様に赤く、また実る果実が「熟す」という言葉には「灬(れんが・れっか)」が含まれている(言うまでも無く、この部首は「火」を象徴している)。 そう考えるならば日本の民話「はなさかじいさん」に出て来る光景もまた、至極当然なものに思える。仮に「枯れ木に花を咲かせましょう」と言って塩を撒いたならば——根は成長するかもしれないが——花は咲かないだろう。それは硫黄プロセスを象徴する灰であったからこそ、成立するイメージなのだ。 そして風に煽られた杉が大量の花粉をまき散らす情景は、火の粉を飛ばして燃える炎の様だと言うことも出来るし、また花粉は風に舞う灰の様だと表現することも出来るだろう。そして炎が燃え尽きた後に残る灰の様に、花粉は化学的な火である「酸」にも溶けない。実際、濃塩酸と濃硝酸とを3:1の体積比で混合して出来る王水aqua regiaは金や白金(プラチナ)を溶かすことが出来るにも拘らず、花粉を溶かすことは出来ない。 この様に植物が萌え盛り、花を咲かせて花粉を飛ばし、果実が熟す過程は全てエーテル的な領域に於ける「燃焼過程」だと言うことが出来る。




植物は三回、拡散と収縮を繰り返すのだが、第一の拡散と収縮は葉に於いて見られる。地面に近い丸くて小さな葉は、上に行くに従って大きくて複雑な形態に拡散し、中程から顎の手前に掛けては再び小さな葉へと収縮し、細くて尖った形になっていく。次に開花という拡散が始まり、それは花粉が飛散することで頂点に達するが、受粉という収縮によって次の段階へと進む。果実の稔りは最後の拡散であるが、同時に果実の中では種の収縮が起きている。実際、熟する前の果実の種子は未だ完全には形成されていない(それはキュウリの種を見れば明らかだ)。 こう考えるならば種こそが、植物の成長という「生命的な硫黄プロセス」の最後に残った「灰」だと言える。だからこそルドルフ・シュタイナーは1923年十月の講演『クリスマスのイマジネーション』の中で、次の様に述べているのだ:

植物は硫黄過程のなかへと成長してゆきます。夏の盛りに、植物は最も強力に硫黄化されます。[ . . . ] 種子の形成は実際、一つの燃焼過程であり、絶えず灰を地上に落としています。[ . . . ] 十月から地球は灰に満ちます。 ルドルフ・シュタイナー『四季の宇宙的イマジネーション』訳:西川 隆範 水声社:34頁

火が燃え尽きて「最後に」残るものが灰だとするならば、灰は「終わり」の象徴なのだろうか。深く考えてみるまでもなく、古代の霊視的な意識は、それとは全く逆のことを述べている。例えば伝説上の鳥である不死鳥(フェニックス)は数百年に一度、火の中に飛び込んで焼死し、その灰の中から幼鳥となって現れるという。詰まり灰は若返りの象徴であり、「始まり」を意味しているのである。そして種が植物の「始まり」であることは、疑う余地がない。


混沌(カオス)

更に灰に注目してみよう。灰に成る前の木には、明確な「かたち」があった。柏の木には柏の木に、また槻の木には槻の木に特有の「形態」が有る。しかし燃えて灰に成ると、それらは全て消え失せてしまう。 また柏の木の、「柏の木らしさ」というのは、単に木の外観だけではなく、その構造にも現れている。実際、木目や色を見るだけでも、どういった種類の樹木から得られた木材なのかは、凡その判別はつく。そして木目や木の色が違うということは、それを構成する繊維の構造が違うことに他ならない。また充分に乾燥していても重い木があれば、逆に軽い木もある。これらは全て、木の「目に見えない形」だと言えるだろう。 そして、それもまた燃えることによって跡形もなく消え去ってしまう。そういった意味で燃焼過程とは、根本的な破壊なのである。だから本を燃やして出来た灰と、服を燃やして出来た灰を見比べてみても——完全に燃焼しているならば——それらを目で見て判別することは容易ではない。詰まり灰に「かたち」は残っていないのだ。 しかし——前回の考察からも明らかな様に——全ての灰が同じだという訳ではない。確かに灰の中に「かたち」の痕跡は無いが、それが燃える前に「何から出来ていたか」ということだけは分かる。そういった意味で灰は「かたち」の無い「もの」なのだ。 この様に全く「形態」を持たない、単に「素材」としてだけ存在するものを、我々は一般に混沌(カオス)と呼ぶ。カオスとは「未だ何にも成っていない素材」を意味しているのであって、それは「混乱」とは本質的に異なる。そして神話の世界では、カオスは全ての始まりなのである。


発芽

種子形成を頂点とする植物の成長は「硫黄プロセス」であり、また生命的な燃焼過程なので、種とは燃焼の結果として全ての形を失ったもの、詰まり「灰」だと言うことが出来る。そして、この灰としての種子は、発芽の時に更に崩壊する。既に混沌である筈の種子が燃焼して、更に混沌へ向かうのだ:

[ . . . ] 化学的な観点だけから見れば、この出来事は物質の崩壊と何も変わりがありません。蛋白質がアミノ酸を経由してアンモニアになり、非水溶性のデンプンは水溶性の糖に変化し、鉱物物質、リン酸等を含んだ複雑な有機結合は、鉱物部分が有機部分から自由になることで分解します。[ . . . ] もうひとつ〈非本質的なもの〉として科学的には無視され、忘れ去られているものが登場します。芽を吹く種子は発熱します(註1)。 ヴァルター・クロース『大地の四季―季節の錬金術について』訳:伊藤 壽浩 涼風書林28頁f

こうして灰としての植物の種は更に燃え、混沌へと向かう:

生体はけっして [ . . . ] 「種子から生じてくる」のではありません。[ . . . ] むしろこのような複雑な構造が極端にまで押し進められますと、それは崩壊するというのが正しいのです。そして地上の領域で最高の複雑さにまでもたらされたものの中には、結局のところ小規模な混沌世界ができます。 ルドルフ・シュタイナー『農業講座』訳:新田 義之/佐々木 和子/市村 温司 イザラ書房:71頁

そして、その混沌から新しい植物が生じるのだ:

このように種子が最高の複雑さに達し、宇宙の塵となって崩壊し、そこに小規模な混沌世界が生じたとき、周囲を取りまいている宇宙の総体が、この種子に向かって働きかけはじめ、その種子の中に自分の似姿を刻印し、あらゆる方向からやって来て全天の作用によって種子の中に形成されうるものを、この小さな混沌世界から作り出すのです。[ . . . ] 地球上の有機生成過程は、そのつど、種子形成において最終段階に達し、混沌状態になります。この混沌の中に、そのつど、全宇宙の中から新しい生体機構が生まれ出ます。 同上

二種類の衝動

シュタイナーの『農業講座』の第二講は、以上の様な観点から地上的な力と宇宙的な力の対立が主題になっている。詰まり宇宙からは「かたち」を与える力が働き、そして発芽した植物は地上的な世界から「いのち」を借りて素材を身に纏い乍ら成長するのだ。 形態を与える宇宙的な力と、素材としての地上的な力は原理的には対立しながらも、相互の鬩ぎ合いの中で様々なものを創造する。これらの対立する二つの原理は、例えばアリストテレスの哲学に於いては形相(エイドス)と質料(ヒュレー)と呼ばれ、ヤッヘンス博士の『牛乳の質と牛の角』に於いては形態の力と素材の力と表現されている。 そして、この自然科学的な二つの原理は、人間の魂の創造行為、即ち芸術に於いても見出すことが出来るのだが、ここで非常に興味深い事実がある。それは「七つの惑星と七つの樹木」というテーマが、自然科学者によっては余り深く研究されて来なかったということである(註2)。そして、その理由は自然科学者と芸術家の根本的な違いに由来する。 詰まり自然科学者は自らの感覚を通して自然を観察し、思考の力を借りて認識することを望むのに対して、芸術家は認識よりも体験と創造に重きを置いているということである。前者は自然界の形態と素材に注目し、後者は自らの魂が持つ形態と素材と深く関っている。ここで前回に述べた「子ども」と「大人」の対比を思い出すならば、どちらがどちらかは一目瞭然だろう。自然科学者は出来上がった「形態」を観察し、芸術家は未完成の「素材」に自らの魂を刻印するのだ。 自然科学者の中心的な興味は樹木の惑星との関連性ではなく、飽くまでも「出来上がったもの」としての樹木である。だからこそ観察の中で目にすることが出来る形態を、別の様々な形態や印象と結びつけていくことはあっても、それは地上的な世界に於ける形態相互の関係性に留まるのだ。これに対して芸術家は惑星と直接的な関係性を求める。だからこそオイリュトミストは七つの惑星のしぐさを、そして音楽家は七つの惑星音階を研究することは有っても、その体験を七つの樹木という「地上世界の形態」に関連づけることは希なのである。 自然科学者が地上的な世界から観察の範囲を広げて行って、宇宙の彼方で樹木の「形態の原因」となっている惑星を見出すことが難しいのと同様に、芸術家は自らの内面に於ける宇宙的な存在との「直接的な関係性」を、魂の外に在る被造物の世界に於いて「間接的に体験する」ことには余り興味が無いのだ。 自然科学者は個別の事象をつぶさに観察することは好んでも、宇宙全体を見渡すことは余りしない。逆に芸術家は宇宙の舞に身を委ねても、地上の世界に目を向けることには余り興味が無いのだ。そして天上界と地上界を結ぶ使命を持っている筈のアントロポゾーフに於いても矢張り、内側の世界と外側の世界の間に横たわる深淵に橋を架けることは容易ではない。これを日常的な言語で表現するならば詰まり、ひとりの人間が芸術家であると同時に自然科学者であることは、決して簡単なことではないということだ。


「情念」

さて話を元に戻そう。自然界に於いて混沌(カオス)が生産的であるのと同様に、それは芸術家の創作活動に於いても大きな意味をっている。例えば『チーム・バチスタの栄光』で有名な作家の海堂尊氏は、BS日テレの番組『加藤浩次の本気対談!コージ魂!!』で以下の様に述べている:

「情念」は口に出せるようになった時点で、既に劣化している

ここで海堂氏が「情念」と呼んでいるものは、創作行為の土壌となる「言葉に出来ないもの」に他ならない。言うまでも無く小説家は、この「言葉に出来ないもの」を正に「言葉にする」という使命を持っているのだが、彼はそれを「安易に言葉にする」ことを好まないのだ。 このことに関して海堂氏は、それは「単純にフェーズ(段階)の問題」だとも言っている。詰まり創作活動には明確な言葉(フォルム)を与えるべき執筆の段階と、単に頭の中で考えているだけの構想の段階があるのだ。そして余りにも早い段階でアイデアを「固めて」しまうならば、作品全体が味気ないもに成ってしまう可能性が有る。何故なら明確なフォルムを与えるということは、それまで「生きて」いたアイデアを殺すことに他ならないからだ。それを卵を孵化させる様にアイデアを「温める」と表現することも出来るし、また「明確なフォルムを与えない」という意味で「泳がしておく」と表現することも有るだろう。 この過程を海堂氏は「内圧を高める」という言葉を使って表現している。詰まり彼が「情念」と呼んでいるものは、容易に言葉にしないことで——或いは誰にも喋らないことで——「力を溜め込む」ことが出来るのだ。仮に人に傷つけられた時に、その場で「私は傷つけられた」と誰かに言ってしまえば、その人は確かに「楽になる」かも知れない。しかし、自分が傷つけられた時に自分の中で生まれた「情念」を大切に保持して、その「内圧を高める」ことが出来るならば、それは自分以外の誰かにとっても価値のある言葉に成るかも知れないのだ(逆にカウンセリングに於いては、自らの内的な体験を少しでも「言葉にする」ことが治療に繋がる)。 また海堂氏は、執筆に先立ってプロット(因果関係を持つ物語の要約)を作らないという。とは言え執筆に取り掛かる段階で、既にラストシーンは彼の目の前にある。そして彼は、そこから物語の発端を「人工的に」作って書き始めると言うのだ。例えば東京から大阪に歩いて旅をする時、西へ行くということは分かっている。そういう意味では全く予想だにしない方向へ物語が進んでいくことは無いが、時々地図に頼ったり道標を確認する必要は有るのだ。 この様に作者は執筆の中で、物語が着実にラストシーンに近づきつつ有ることは実感しながらも、これからどの「道」を辿って物語が進んで行くかについては、書いている本人も具体的には知らないのだ。


学術的な論文

こういった手法は何も、小説の様なフィクションを書く時にのみ有効なものではなく——それは哲学的な論文にせよ自然科学的な考察文にせよ——現実を描く文章に於いても同じことが言える。詰まり、先に論文のタイトルや構成(目次)を決めること無く、自分が書きたい箇所から恣意的に書き始めるのだ。 例えば、昨日の散歩の途中で見た葉っぱの形に関する考察を文字にしていると、ふと五年前に呼んだ中世キリスト教神学の内容を思い出す。そして、それについて書いている間に、今度はその話が現在の国際情勢に通じるものを感じて、そこに繋げていく……といった具合だ。そして或る程度文章が出来上がった時点で自分で読み返し、全体の内容に余り関係の無い箇所は削除して、内容に応じて見出しを付けて目次を作る。目次が出来た段階で自分の思考内容を「外から見る」ことが出来るので、そこから説明不足の箇所を厚くしたりすることもあるだろう。 バラマキを目的とした公共事業は「小さく生んで大きく育てる」ことが鉄則だが、同じ様なことは執筆に於いて頻繁に起る。実際、数千文字で表現出来ると思っていたことを、いざ文章にしてみると何万字にもなってしまうことは珍しく無い。そして「軒を貸して母屋を取られる」こともまた日常茶飯事である。詰まり或る問題に着いて書く為に、それを説明する別の問題に関する文章を書いていると、それ自体が何時の間にか主題になってしまうということである。 そして更に興味深いのは、この様な過程を経て書かれた文章というのは、暫くして読み返してみると自分でも驚く様な内容が書かれていることである。またアイデアという混沌に無理にフォルムを与えるのではなく、意図的に「行き当たりばったりに」文章を書くことで、それまでに一度も考えたことが無かった思考内容に辿り着くことも決して珍しく無い。大学の卒業論文を書く時に——自分の頭の中を整理する為に——執筆を始めるよりも前に目次を作成した者も珍しく無いだろう。確かに、そうやって自分の頭の中を「外から制御する」ならば、思い通りの文章が書けるのかも知れない。しかし、そのような外からフォルムを与える執筆で、面白いものが書けるかどうかは別問題だ。


沈黙

この様に文章を書く時には、意図的にカオスを楽しむ必要が有る。未だ「言葉にならないこと」を、全く言葉に出来ないままで辛抱する才能が、そこでは求められるのだ。そして、この様にカオスをカオスのままで受け取り、そして自らの内面で「殺さずに維持する力」は、他者の話を「聞く力」に繋がる。何故なら聞くということは、自分以外の誰かの喋った言葉に明確な概念(フォルム)を与える行為ではないからである。 理解に苦しむ他者の話を辛抱強く、そして凝縮した興味を持って聞くことが出来る者は、力強い言葉を発することが出来る。詰まり自然界に於いては混沌が発芽の端緒になった様に、言葉は沈黙から生まれるのだ。だからこそルドルフ・シュタイナーは、以下の様に述べている:

Lerne schweigen und dir wird Macht. Begib dich der Macht und dir wird Wille.
沈黙を学べ それが力と成る 力へ赴け それがお前の意志となる

————————————————

  1. この一節は、次に続くシュタイナーの『農業講座』からの引用と矛盾している様に思える。何故ならシュタイナーは「複雑化によるカオス化」を論じているのに対して、ここで問題になっているのは単純な「有機物質の崩壊・分解」だからである。しかし詳しく見てみるとシュタイナーの「複雑化」は胚に見られる過程であり、クロースの「崩壊」は種子の繊細な滋養成分(恐らく胚乳)に於いて起きているものだと気付く。またクロースは発熱を塩プロセスとの関係で論じているが、これはクロースが発芽を「根」と関係付けて述べているからだと思われる。 
  2. 例えば雑誌『シュティール』34Jg.Heft 2の44頁に於いては「過去に於いても現在に於いても、惑星と樹木に関する現象学的な研究は、ゲーテ的・アントロポゾフィー的自然科学及び天文学の“メインストリーム”ではなかったし、またない」と述べている。


竹下哲生 Tezuo Takeshita
1981 年香川県生まれ。2000 年渡独。2002 年キリスト者共同体神学校入学。2004年体調不良により学業を中断し帰国。現在自宅で療養しながら四国でアントロポゾフィー活動に参加。共著『親の仕事、教師の仕事〜教育と社会形成〜』訳書『キリスト存在と自我〜ルドルフ・シュタイナーのカルマ論〜』(SAKS-BOOKS)、『アトピー性皮膚炎の理解とアントロポゾフィー医療入門』(SAKS-BOOKS)『三位一体』(キリスト者共同体・東京集会)


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