2014年6月8日日曜日

ヨハネス・グライナー:協会と個人

ヨハネス・グライナー Johannes Greiner

今、ドイツ語圏のアントロポゾフィー界で売れっ子のヨハネス・グライナー氏。アントロポゾフィー・スイス邦域協会の理事でもある彼が2015年夏に四国を訪れることになった。そこでゲーテアヌムで開催された年次総会の為にドルナッハに滞在していた竹下が彼にインタヴューをお願いした。インタヴュー第二弾はアントロポゾフィー協会の現状と課題について。

インタヴュー第一弾:人生と仕事はこちら

インタヴュー&翻訳:竹下哲生

来年(2015年)夏に四国を訪問予定のヨハネス・グライナー氏に、アントロポゾフィー協会の現状と課題について訊いてみた:

どうして協会活動というものが重要なのかと言うと、それは健康な自我の成長は社会(協会)的な人間関係の中に於いてのみ可能となるからなんですね。この問題は子どもにとっては、さほど深刻な問題では有りません。というのも子どもには学校が有る訳であって、こどもの成長というのは「学校の人間関係」が支えてくれるんですよ。でも大人にとって学校というのは全く不十分で、だからこそ社会が必要になるんです。

——今、グライナーさんが直面している「協会の問題」って何ですか?

その問題は、幾つかの層に分かれて存在します。その中で僕が差し当たり取り組んでいるのは協会内での「羊」と「牧者」を区別することですね。詰まり「牧者」というのは羊飼いのことですから自発性と積極性を有していて、協会内で主導権(イニシアティヴ)を持っている、詰まり羊たちを導く使命を持っている人たちのことですね。そういった目でアントロポゾフィー協会を見渡してみると殆どの人は「羊」、詰まり導かれる者なんですね。簡単に言うと協会の多くの人が単に誰かについてゆきたいと考えていて、自分から進んで何かをやろうとしない、というのが先ず思い浮かぶ問題です。

——それが先ほど言っていた「学校」という状況ですね。

そうそう。何しろアントロポゾフィー協会は学校ではなくて協会なのですから。そして、協会内で牧者になる人というのは、何れにせよ大きな責任を負っている人です。詰まり医者であれ学校の教師であれ、或いは企業の経営者である様な人が協会に来て、今度はアントロポゾフィーによって導かれることを望んでいる羊たちを世話する課題を与えられるということなんですよ。しかし一般社会で様々な責任と課題を負っている人たちは当然の如く時間的余裕も無く、今度は協会の中で導かれることを望んでいる羊たちの為に重ねて時間を費やすことに喜びを見出せなくなっているのです。これが恐らく、最初に挙げられるべき協会の大きな問題の一つだと思います。

そして二つ目に考えられるのが歴史的な関連性ですね。ご存知だとは思いますがアントロポゾフィー協会の歴史というのは分裂の歴史でもあります。具体的に言うならばルドルフ・シュタイナーの死後、先ずはイタ・ヴェークマンとマリー・シュタイナーの対立によって協会は分裂し、その後はアルベルト・シュテッフェンとマリー・シュタイナーの対立によって更に分裂します。まあ、このことは現代に於いて差程大きな問題ではありませんが、その反面そうした過去は全て事実であって、それを原因とする後遺症は今でも協会活動のそこかしこに見い出せるんですよ。

そうした意味で現状の原因を多かれ少なかれ過去の歴史的事実に関連づけて考えることは避けては通れない問題です。何故なら現在の協会は「分裂の歴史」という土台の上に発展してきた訳ですから、放置しておけば問題は更に大きくなってしまうのです。とはいえ先程も述べたように、この問題は現代に於ける最重要課題と言う訳ではなく、飽くまでも「協会経営に於いて考慮すべきこと」といった程度の問題です。

そして三つ目の問題はアントロポゾフィーそのものの発展形態です。というのもルドルフ・シュタイナーは人類の有する時代の要請に耳を傾け、そして、それに応える形で人々にアントロポゾフィーを提供し、それを発展させました。だからこそ僕は世の中を見渡すということが、アントロポゾフィーの発展には不可欠だと思うんです。そして世の中が求めているものに応えることでしか、アントロポゾフィーの生命を保持することは出来ないんですよ。それは詰まり「時代の危機を自らの内に取り込む」ということでもあります。

——いわゆる、ひとつの「マニ教的原理」ですね?

そうです。そういった発展をしない限り、アントロポゾフィーに明日は無いと思うのです。そうした意味で現代のアントロポゾーフは、殆どが現代人ではない様に感じます。詰まり彼等の時計の針は九十年前、即ち普遍アントロポゾフィー協会が創立されたシュタイナーの最晩年で止まってしまっているのです。ですから彼等は九十年前と同じ様に感じ、九十年前と同じ様に考え、そして九十年前と同じ様に行動するのです。

そして、この全く現代人ではない人々の口からアントロポゾフィーが発せられると、それを聞く現代人は全く理解出来ないのです。何故ならアントロポゾフィーを口にする人が現代人の問題、現代社会が抱えている矛盾や障害を全く直視していないからです。

そういった事柄全てが第三の課題だと思います。それは、時代の必然性や危機感にアントロポゾフィーが如何に答えるか?……という問題意識と関わっています。

こうした観点で僕が個人的に取り組んでいることの一つの例がメディアの問題です。今の人類はメディアによって、どういった問題に直面しているのかということについて、アントロポゾフィーの視点から考えてみる訳です。ところが興味深いことに、こういった時事的(アクチュアル)な問題提起というのは、少なくともアントロポゾフィー協会の内部では余り好まれないというのが実情です。何故なら多くの会員は世界の没落や人類の荒廃についてではなく、古代の密議に関する美しい講演、敬虔で内省的な気持ちにさせてくれる話を望んでいるからです。

そして、そうやって協会内で古代への憧憬を掻き立てて、目の前に起きている現代の問題には殆ど関心がないから、協会は一般社会からますます孤立してしまう訳です。こういった傾向の全てが、当然のことながら若い世代を協会から遠ざけています。何故ならそうした世代の人々は、その様な「過去に生きる」協会には魅力が見い出せないからです。

そこから第四の「信憑性の問題」へと繋がってゆきます。
そもそも信憑性というのは「自分に正直である」ということであり、又「自身の自我で事象に関る」ことだと表現出来るでしょう。そして現代に於いて、そうした意識は全く当然のことであり、最低限の了解事項になっています。具体的な例を挙げれば、生徒に喫煙を止めさせたい時に、「そういうバカなことは止めろ」と言うのであれば、それは正しいことであれ間違っていることであれ、相手に取っては意味のあることだと思います。詰まり「それは良くないことだ」という自身の考えを相手に伝えるわけです。しかし同じ場面で「それはシュタイナーが良くないと言ったから」と伝えても、相手はそれを真剣には受け取らないでしょう。

このように、現代の人間は「その場にいる」ということが常に求められているのだと思います。「シュタイナーがこう言った」と表現することは、自身の責任で何かを言っているのではなく、単に自分が自身の師の代理人として己の口を使っているに過ぎないんですよ。そうやって自分が代理人的存在として他者と関るということは、要するに「その場にいない」ということなのです。でも現代の人間というのは、他者に対して「その場にいること」を求めるんですね。それは現代社会に於ける当然の欲求だと思います。ところがスイスのアントロポゾフィー協会を見渡してみるならば、殆どの人が「シュタイナーはこう言った」ということばかり口にしています。

——しかし、それを言うのであればグライナーさんの同僚でもあるペーター・ゼルクの本なんかは、どうでしょうか。彼の本なんかはシュタイナーからの引用文だけで成り立っている様なものですよね。そういった彼の本が今、スイスやドイツのアントロポゾフィー界で好評を博しているという事実について、どう思われますか?

彼が沢山の本を出版してくれていることに関して、僕は三つの意味で歓迎しています。第一に、現代の人間にとってシュタイナーの本は難しくなりすぎていると思います。これに対してペーター・ゼルクの本の方が遥かに読み易いんですね。ですから非常に入り込み易いというか、すっと入っていけるので、それが「体験」に成り易いんですよ。それが僕が彼の本を評価している第一の理由です。

そして次に素晴らしいことは、彼が多くの過去の出来事を発掘してくれるという事実です。彼がそれをしなかったならば、誰もそれをしないだろうということは明らかです。ですから、そういった仕事をしてくれているという意味に於いても僕は彼に非常に感謝しています。そして彼が与えてくれる「観点」と言うべきものもまた、誰もが考えなかった様なものばかりです。

更に言及すべきことは、世の中にはアリストテレス的な人々ばかりではなく、プラトン的な人々も多く存在するということです。そしてプラトン的な人々には、これまでと全く違った形での「アントロポゾフィーへの入り口」が必要なのです。何故なら抽象的な思考というものは彼らにとって余り得意なことではないからです。これがすなわち三番目の理由ですね。彼等にとってはまた「自分の足で立つ」ということも難しい課題の一つです。何故なら彼等にとっては「地上で生きる」ことそのものが、少し遠いものになってしまっているからです。これは丁度、暫く練習していないピアニストがすぐには上手にピアノが弾けないことと同じです。ですから、こうしたプラトン的な人々には絵画的イメージの世界が必要なのです。そしてペーター・ゼルクの本の様なイメージによる「入り口」があることは、彼等がアントロポゾフィーへの接続点を見い出せるようになるという意味に於いても非常に重要なんですね。

実際、彼の本はクリスティアン・モルゲンシュテルンやマリー・シュタイナー、或いは心臓の瞑想などをテーマに、全てを一つのまとまったイメージとして描いている訳です。これによってプラトン的な人々は、自身との関係性を見出すことが可能なのです。

正直言って僕個人にとってはゼルクの本はそれほど重要なものではありません。確かに新刊が出る度に目は通しますが、そこから幾つかの重要なテーマを抜き出すだけで、全体を読み込むということはしません。何といってもそれには労力が必要ですから、その労力を僕はシュタイナーの本を読むことに使いたいのです。でもペーター・ゼルクの本を必要としている人々の存在も僕は理解しています。

僕が彼を非常に評価し尊敬もする点は、彼の生き方自体が100%アントロポゾフィーとシュタイナーの為にあるということです。それとは逆に「隠れた敵対者」……つまり外見上はアントロポゾーフの様に見えても、自身の著作の中で間違った意見や見解を述べてしまうことに因って結果的にアントロポゾフィーの足を引っ張ってしまうような人も存在します。そうしたことを含めて、ゼルクの本は読んでいて非常に心地良い……と評価することも出来ますね。

——シュタイナーの本を読む古い世代と、もう殆ど読まなくなった若い世代との間に隔たりがある様ですが、グライナーさんはヴァルドルフ学校の教師でもある訳ですから、今の若者のアントロポゾフィーへの関心、或いは精神的な活動全般に対する興味というものも、感じられていることはありますか?

御存知の様にヴァルドルフ学校というのは世界観を教える学校ではありませんから、教育の基礎としての人間理解の為に教師がアントロポゾフィーを学ぶことはあっても、それを生徒に教えることは基本的には有りません。とは言いながらも実は僕はヴァルドルフ学校で十一年生と十二年生を対象にアントロポゾフィーの授業もやっているんですよ。確かにその授業には一定の参加者が集まりますが、そんなに多いとも言えません。ですから現代の若者のアントロポゾフィーに対する関心は、それ程高くはないと言えます。でも、それより強調すべきことは、アントロポゾフィーを始めること自体は思うほど難しいことではないということです。それよりも遥かに難しいのは、協会活動に興味を持って貰い、協会の活動に自発的に参加するところまでもっていく事なんですね。つまりアントロポゾフィーに興味を持ってもらうことは簡単なのですが、協会に興味を持って貰うことは本当に難しいんですよ。

また先程、信憑性の問題と言うのは、単に「そこに居る」ことだと話しましたよね。これを人間学的に表現するならば「アントロポゾフィーと自我の関連性」と言い換えることも出来ると思います。つまり全ての人間は自我を持っているという限りに於いて、誰もが「精神世界への扉」なのです。だからこそ如何なる人間を通してもアントロポゾフィーに出会うことは可能なのであって、シュタイナーの本がアントロポゾフィーへの唯一の扉という訳ではないのです。そうした認識に於いてより一層、他者と共に活動するという課題、即ち協会活動の重要性が問題になってくるのです。

社会生活に於いて人間がお互いに他者を感じ合うということもまた非常に大きな問題で、恐らくこれが第五の問題でしょう。何故なら今のアントロポゾフィー界を見渡してみると、そこかしこに小さな集まりがあるだけなのです。しかし協会にとっては本来、全体として機能するということが重要なのです。それは丸で一人の人間の様に、小さな個々の集まりはそれぞれの至らないところを他の小さな個々の集まりで補うかの様な動きをするべきなのです。でも現実には、個々の集まりは基本的に孤立していて、他の集まりとの親密な連携というのは見い出せないのです。

具体例を挙げましょう、ドルナッハにはゲーテアヌム支部Zweig am Goetheanumというのがあって、以前それは非常に大きな集まりでした。ところが、その中に誰かが新しい衝動を持って入って来ると、古くから居る人たちとは折り合いが悪くなる訳です。その結果、新しい衝動を持った人たちが追い出されると、その人は新たな支部をドルナッハに創立する訳ですね。そういう形でドルナッハには、例えばオディーリエン支部Odilien-Zweigなど幾つかの支部が存在します。確かに、アントロポゾフィー協会は新たな組織を設立することが可能な構造を最初から持っていますから、それ自体は悪いことではありません。しかし僕が問題だと思うのは、そうした新たな支部が設立されることが協会に力を与えているのでは無く、寧ろ互いに力を奪い合っているのが現実だということです。まあ、この状況というのも近年では随分と好転して来たとは思いますが。

——非常に興味深いお話しでした。最後に何かおっしゃりたいことは有りますか?

そうですね、これは常に意識していることなんですが、僕は誰もが理解できる形でアントロポゾフィーを語ろうと心がけています。その為には自分自身が全く人間的に成るということが肝要だと思います。それは詰まり全く普通で、全く一般的な現代人に成る、一個の地上的な存在に成るということです。そして、そうすることでアントロポゾフィーを誰もが理解出来るようになります。自分が人間になることで、誰もが理解できるようになるんですね。

もし竹下さんが薔薇十字会員の様にアントロポゾフィーを語るならば、竹下さんを理解出来るのは薔薇十字会員だけになってしまいます。だからこそ我々は、常に人間的になることが求められているんです。何故なら竹下さんが人間的に語るならば、それを誰もが理解することが出来るからです。

そして人間が人間的に成るということは、自分の無力感を深く体験するということでもあります。そして人間には、そういった体験を通過しなければ手に入れられない輝きというものが、恐らくあるんだと思います。そして、それは本当に人間的なものなので、人間ならば誰にでも受け入れられる筈なのです。

またドルナッハに来ることがあれば言って下さい。その時に是非お会いしましょう。そして近い将来にドルナッハに来ることがなくても、来年の夏には皆さまと四国でお会いすることになるでしょう。それでは、また。

Johannes Greiner ヨハネス・グライナー
ピアノ教育を専門とする音楽家(SMPV)でありオイリュトミスト。ピアニスト、指揮者として活動し、音楽史や文化史、或るいはアントロポゾフィーに関する講演や講座を各地で開催しており、また教師としてヴァルドルフ学校の生徒に授業もしている。アントロポゾフィー協会の仕事としては2005年からスイス邦域協会の理事会に参加し始め、2006年より正式に選任された理事としての活動を始めている。主に取り組んでいる課題は現代に於ける文化的な現象の背景を、アントロポゾフィーの視点から解明することと、もしルドルフ・シュタイナーが現代に生きているならば、何を言い、そして何を行うであろうかという疑問。リンク

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