![]() |
Gavrilo Princip captured in Sarajevo 1914.6.28 |

百年前の今日に起きたサラエボ事件は、第一次世界大戦の引き金となった。そして第一次世界大戦は、終戦から二十一年後の第二次世界大戦の原因になる。三十一年間続くヨーロッパ世界の破壊と没落を目の前に生きた、ルドルフ・シュタイナーの「今」を浅田豊氏が描く。
今からちょうど百年前のことである。1914年の6月29日、画家ヘルマン・リンデは、ルドルフ・シュタイナーに朝刊の記事を指し示した。前日のサライェヴォの事件が大見出しで載っていたのだ。この場を目撃した画家のヒルデ・ボース=ハンブルガーは、次のように記している。「この瞬間のシュタイナーの表情を私は決して忘れないでしょう。『とうとう大惨事(カタストローフェ)がやってきた!』という言葉を語ったときのシュタイナーの大きく見開かれた目には、底知れない驚愕と悲しみが宿っていました」。(注1)
6月28日、ボスニアの首都サライェヴォにおいて、オーストリア皇太子夫妻、フランツ・フェルディナントとゾフィーがセルビアの一青年によって暗殺された事件が第一次世界大戦勃発のきっかけになったことは良く知られている。しかしこの暗殺事件は一青年の単独の行動ではなく、爆弾と拳銃を持った何人もの暗殺者たちがパレードの道にそってひそみ、一人が失敗したら二人目が暗殺を試みるという具合に、非常に周到に計画されていた。シュタイナーは「それは綿密に計画され、全く世界史上未曾有の、大規模に構築された暗殺事件だと言いたいほどです」(1916年12月16日の講演)と言っている。(注2)
神秘劇を上演するための劇場「ヨハネ館」をミュンヘンに建築するための計画が様々な事情により不可能になったあと、この建築の構想はスイス、バーゼル近郊のドルナッハの地にやって来た。1913年9月20日の定礎式のあと建築は着々と進められ、1914年4月1日には既に上棟式が行われ、5月の段階で、200人のアントロポゾーフ(人智学を学び実践しようとする人たち)が建築現場で芸術家として、また職人として活動していた。(注3)これらの人々はヨーロッパ各国から来ており、その国籍は17に上っていた。(注4)シュタイナーは、8月にはこのヨハネ館を完成させたいと考えていた。
日本では、第一次世界大戦は私たちの心の中にそれほど重い位置を占めていない。日本も戦争に参加し、山東半島に出兵し、また、ドイツ領南洋群島を占領し、また、青島を攻略した。つまり僅かの犠牲を払っただけで、いくらかの領土を手に入れたわけだ。私たちの気持ちの中で、それ以前の日清戦争、日露戦争のほうが重要であり、さらに、その後の日中戦争、太平洋戦争が大変な重みを持っているのも当然だろう。
ヨーロッパにおいてはこの事情は全く異なっている。1914年から1918年まで、同盟国(ドイツ、オーストリア、イタリア、もっともイタリアは既に1915年春に三国同盟を破棄してオーストリアと開戦した。)と協商国(イギリス、フランス、ロシア)とのあいだに戦われたこの大戦争は、20世紀の諸悪の元凶となった「根源的大惨事」とよく呼ばれている。それまでに例をみないような大規模な総力戦であり、軍隊だけでなく、国民生活に重大な影響を及ぼした。戦争責任の追求から生まれたヴェルサイユ体制は、恒久的な平和を維持することはできず、直接、間接に第二次世界大戦へとつながっていったが、その元凶にあたるのが第一次世界大戦であると考えられ、また感じられている。事実ドイツ、フランス、あるいは英語圏においても、第一次世界大戦の研究書、概説書がここ数年のあいだ、数多く出版されている。何故戦争が起きてしまったか、誰に戦争責任があるのか、という点について、今日でもまだ議論がつきない。「(戦争という)この出来事が起こるに違いないことは数年前から既に見通すことができました。それが運命的な観点から今年(1914年)に起こるに違いないことも」とシュタイナーは1914年9月30日にシュトゥットガルトで述べている。(注5)しかしそれがサライェヴォの暗殺事件として実際に起こってみると、それはシュタイナーにとっても驚愕すべき出来事であった。霊的な世界の事物も自由に探求できるシュタイナーにとっても、物質的な世界の大惨事は大きな打撃を与えた。というより、むしろ霊的な世界に精通しているが故に、物質世界の苦しみをより深く感じたと言えるのではないだろうか。しかしシュタイナーのこの苦しみは、彼の個人的な苦しみであっただけではなく、むしろ人類全体の、少なくともヨーロッパの民族全体の苦しみを受け取ったものだと言わざるを得ない。
第一次世界大戦という危機に向かっていく数年のあいだ、人類に希望と光をもたらすような出来事も起きている。アルバート・シュヴァイツァーが、1913年3月に故郷のアルザス(当時はドイツ領)をたち、ボルドーからアフリカに向かった。フランス領赤道アフリカのランバレネで医療活動に従事するためである。シュヴァイツァーとシュタイナーの素敵な出会いについては、機会があれば書きたいと思っているが、これは後日。
重苦しい、恐ろしい日々を一週間以上過ごしたあと、ルドルフ・シュタイナーはおそらく7月8日にはドルナッハをたち、ベルリンを経由して、スエーデンのノルシェーピング(Norrköping)に向かう。ノルシェーピングはストックホルムの南西140kmほどのところにある町で、ここにシュタイナーは2年前の1912年5月にも来ており、『神智学のモラル』と題する、3回の素晴らしい講演を行っている。今回のアントロポゾフィー協会会員のための4回の講演は、『キリストと人間の魂』と題されていたが、その日程を次に書いておこう。
- 7月12日 『キリストと人間の魂』講演1
- 7月13日 公開講演『神智学とキリスト教』
- 7月14日 『キリストと人間の魂』講演2
- 7月14日 『秘教(エソテリック)学校』の枠内における、戦争勃発前の最後の講演。戦争勃発にともない、この教示指導は停止された。
- 7月15日 『キリストと人間の魂』講演3
- 7月16日 『キリストと人間の魂』講演4
シュタイナーは1908年ごろから1914年にかけて、4つの福音書の講義を初め、かなり集中的にキリスト衝動について語っているが、第一次世界大戦勃発を目の前にひかえたこの講演集は、シュタイナーのキリスト論のいわばエッセンスのような感がある。この講演を聞いた画家のマルガリータ・ヴォロシンは次のように回想している。
「ルドルフ・シュタイナーが7月12日から16日の間に行った講演は全く特別の効果を残しました。もしかしたら、それが世界大惨事の直前に行われたという理由からかもしれません。それは、自由な意志と、神的なものを把握することが、人間の発展の二つの目標点であることを私たちの意識にもたらしました。それ故シュタイナーは、それによって人間が善と悪を区別する能力を得た原罪と、ゴルゴタの出来事を二つの宗教的な恵みと名付けています。この出来事が起こらなかったなら、地球発展の過程において闇に陥った人間の魂は、その最も深い本性を決して見いだすことはできなかったでしょう」。(注6)
ノルシェーピングの講演を終えたシュタイナーは、おそらく7月17日に、スウエーデンの港町トレレボーから船路、ドイツのザスニッツに向かった。バルト海の洋上、シュタイナーの乗っている船とすれ違った船があったが、これはフランスの軍艦ラ・フランス号で、乗っていたのはフランスの大統領レイモン・ポアンカレと政府首相ルネ・ヴィヴィアーニであった。ロシア皇帝ニコライ2世と会談するためにペテルブルグに向かう途上で、ポアンカレの意志は、ロシア皇帝と仏露間の協商を強化し、ドイツとオーストリアに対する強硬な姿勢を確認することにあった。(注7)
戦争をも辞さないポアンカレの政治的意志と、人間一人一人の自由と平和を求めるシュタイナーがバルト海上で交差した。
(続く)
——————————————
- Hilde Boos-Hamburger: Aus Gesprächen mit Rudolf Steiner über Malerei, Basel, 3. Auflage 1985, S. 11.
- Vortrag vom 16.Dezember 1916, GA 173a, 5. Auflage 2014, S. 173f.
- archithese, Internationale Zeitschrift und Schriftenreihe für Architektur, 3.2012 Mai/Juni, Der Bau der Gemeinschaft, S. 48.
- Markus Osterrieder: Welt im Umbruch, Stuttgart 2014, S. 960.
- Vortrag vom 30. September 1914, GA 174b, Dornach, 1. Auflage 1974, S. 21.
- Margarita Woloschin: Die grüne Schlange, Lebenserinnerungen, Stuttgart, erweiterte Neuausgabe 2009, S. 417.
- Ludwig Polzer-Hoditz: Erinnerungen an Rudolf Steiner, Dornach 1985, S. 53.


1952年神奈川県三浦市生まれ。東京でドイツ文学を学ぶ過程でルドルフ・シュタイナーの思想と出会う。1977年ドイツに渡り、シュタイナーの治療教育を学ぶ。1980年よりスイス在住。治療教育を数年間実践したあと、ゲーテアヌム図書館、後に書店に勤務。その間にオイリュトミーとオイリュトミー療法を学ぶ。現在は、チューリッヒ近郊の大人の障がいをもった人たちのホームで、オイリュトミーとオイリュトミー療法を実践する傍ら、ゲーテアヌム書店にも勤務。



0 件のコメント :
コメントを投稿