2014年5月29日木曜日

ヨハネス・グライナー:人生と仕事

ヨハネス・グライナー Johannes Greiner

今、ドイツ語圏のアントロポゾフィー界で売れっ子のヨハネス・グライナー氏。アントロポゾフィー・スイス邦域協会の理事でもある彼が2015年夏に四国を訪れることになった。そこでゲーテアヌムで開催された年次総会の為にドルナッハに滞在していた竹下が彼にインタヴューをお願いした。


インタヴュー&翻訳:竹下哲生

——それでは先ずグライナーさんの生い立ちについて伺いたいと思います。グライナーさんもいわゆる『ヴァルドルフ家族』の御出身なのですか?

そうですね、そう言って差し支えないと思います。僕の母親はどちらかと言えばキリスト者共同体の方に重きを置いていて、父親の方はアントロポゾフィーの方ですね。ですからアントロポゾフィーは僕の人生に最初から背景として存在していました。でも僕はヴァルドルフ幼稚園には通っていないんですよ。というのも幼稚園生活というものが僕には何だか退屈なものに思えて、その代わりに家でヴァルドルフ幼稚園の様なことをやっていました。ですから幼い頃は蜜蝋粘土や普通の粘土でコネコネやって遊んでいました。

それからヴァルドルフ学校へ就学することになるんですが、そこで僕は随分とガッカリすることになります。というのも当時の僕は余りにも多くの理想を持っていたんですよ、「人間とはかく在るべき」みたいな……。ですから僕は、本当に扱い難い生徒だったと思います。何しろ学校というものに失望していた訳ですから。

——お気持ちは良く分かります。

そして人生最初の月の交点*(ムーン・ノード)の時期に、詰まり十七歳か十八歳の頃ですが、或る女性に出会いまして、その時改めて自分の人生について考える様になりました。その結果マトゥーラ(スイスの大学入学資格試験)をやらずに、彼女と一緒にオイリュトミー学校に行くことにしたんです。ですから僕の学歴は十二年ヴァルドルフ学校で学んで、そこから直接オイリュトミー学校ということになるんですね。

更に言及しておくべきことは僕とピアノとの関係です。僕は子どもの頃からずっとピアノを好きで弾いていた訳ですが、それは「ピアノを弾いていた」というよりは、寧ろ「弾かなければならなかった」という状況です。それはもう病的と呼べるものでした。ですから僕はピアノ無しでは、思春期を乗り切ることは出来なかったと思っています。

——そのお話、もう少し詳しく聞きたいですね。

僕がピアノを始めたのは多分、九歳か十歳の時だったと思います。またチェロも弾いていました。それでさっき言った僕の様々な問題や、或いは悩みみたいなものは全てピアノが「診察してくれた」と言えるでしょう。実際、僕は本当にピアノを弾くことに没頭していました。ですから一日六時間ピアノを弾いていることも、決して珍しいことではありませんでした。なので、そういう事実を踏まえても、僕にとってヴァルドルフ学校卒業後の進路は自明のものでした。詰まり「音楽を学ぶ」ということです。そして、それ以外の選択肢は考えられませんでした。ということで僕はオイリュトミー学校に通いながら同時に音楽を学ぶことになります。詰まりピアノのレッスンですね。

そんな或る日、僕はヴァルドルフ学校の教師から、オーケストラの指導(指揮)をやってくれないかと言われました。そのとき僕は未だオイリュトミー学校の生徒で、自分自身の学びを終えていた訳ではないのですが、その依頼を受けることにしました。それは前任の教師の代理としての仕事で、僅か五週間のことだったのですが、本当に素晴らしい体験でした。こんな夢の様な職業が有るのかと驚きましたね。

それ以降、僕は次から次へと色々な領域に手を出していくことになります。先ずはオーケストラ、それから音楽理論、そして歌、次に音楽史、芸術史、更にはドイツ語といった具合にです。まあ、こうやって自分の領域を一歩一歩広げて行った中で、今は主にドイツ語と歴史の授業をしています。

——凄いですね。しかし大学で歴史学を学んだ訳ではない、それどころかマトゥーラさえ取得していない人が学校で歴史の授業をしているというのは、少なくとも資格にうるさいドイツ人的な感覚からすれば驚きですね。

スイスでは余り問題無いんですよ。まあ、要するに自分が教えることを自分できちんと理解さえしていれば良い訳ですから。いわゆる「資格」という観点で論じるならば、僕が唯一持っているのはピアノの指導者としての資格ですね。これに関しては教育学的な経歴が有ります。でも、こんな資格持っていても何の役にも立たないんですけどね。

——資格ではなく能力ということですね。

そういうことです。肝心なのは出来るか出来ないかです。出来るのならば、やればいいんですよ。但し、その時に二つ条件があります。それは第一に生徒が満足していることであり、第二は生徒のご両親(保護者)が満足していることです。

まあ、そんな感じで僕は二校で同時に教えていました。と言っても、それぞれの学校での教師としての課題はそれほど大きくはなかったのですが。

それで僕が三十歳になった頃にアントロポゾフィー協会から理事になってくれないかという要請がきました。しかし当時の僕はアントロポゾフィー協会に随分と失望していたんですよ。というのも二十歳前後の時にゲーテアヌムと積極的に関っていた時期が有りまして、その時に結構不愉快な体験をしているんです。そして様々な悪い経験をする中で僕の中での『諦め』は強くなってゆき、気が付けばゲーテアヌムには関らない様になっていました。そして、それは同時に『自分がやるべきこと』に集中するということでもありました。それは既に述べて来た様に、学校での教師としての自分の役割です。

でも、それから十年経った頃にまたアントロポゾフィー協会と関る可能性が出て来ました。詰まり先程述べた理事就任の要請です。その時に僕が思ったのは、これは「運命だ」ということです。何でも外から悪く言うことは簡単ですが、自分の方がより良く行えると言うのであれば、やった方が良いですよね。

それでまあ三十、三十一の時に理事に就任して八年、九年になる訳ですが、実際にやってみると本当に大変ですね。協会内の現実というのは外から見ているよりも遥かに複雑で、また困難なものだということを今では実感しています。自分には納得のいかないことを協会の中で変えようとしても、それは簡単ではないんですよ。そういうことは僕の人生の中で、間違い無く一番難しい課題だと言えると思います。僕は常に挫折感を体験していますし、またイライラすることもしょっちゅうです。

——それまでの協会との関係性は?

実は、僕は理事の要請がきた後に会員になっているんですよ。

——そういうケースもあるんですね!……そういえばキリスト者共同体のほうは?

そっちは随分と早くから成員でしたよ。そもそも堅生式を受けたのもキリスト者共同体でしたしね。二十二、三歳の頃にはもう人間聖化式の祭儀音楽を作曲したりしていましたし、二十三、四歳の頃にはスイスのカントル(宗教音楽の最高責任者)になっていました。ですからスイスのキリスト者共同体の音楽大会を毎年組織したりと、かなり精力的に活動していましたよ。

また、その頃もゲーテアヌムでは講演をしたり演奏会をしたりしていまして、随分とお金も頂いてます。そういう訳で三十歳で理事の要請があった時には、これは矢張り受けるしかないと思いましたね。何しろ僕が協会の活動と深く関っていたことは事実なのですから。それ以来、自分なりにベストをつくす努力はしているんですが、まあ協会経営というのは本当に大変なんですよ。

——理事というのはゲーテアヌムの理事ではなくて、スイスのいわゆる邦域協会の理事ですよね?

そうです。それで理事会には僕の他にマルク・デゾールMarc Desaulesとクラーラ・シュタインマンClara Steinemann、それから最近入ったペーター・ゼルクPeter Selgが居ます。会員が4,000人規模のスイス邦域協会の理事が四人というのは、まあ少ないですよね。でも、本当によく働いてくれる秘書の方が居るんですよ。ですから理事会は四人の理事と一人の秘書で成り立っていると言えますね。

——スイス邦域協会の現状というのは、どんな様子ですか?

二十世紀のアントロポゾフィー協会の歴史を辿ってみると、本当に何もかもが不健全な発展を遂げて来たことが判ります。詰まり本来ならば協会に結び付いているべき人も、協会での活動に満足出来ずに遠ざかってしまうか、場合によっては協会側からそんな人たちを追放したりもしていた訳で、その度に協会という人間の結び付きに「穴」が出来るんです。そして現在の我々は、その『負の遺産』に直面していると言えます。

そして、その事実は世代間の違いを比較することで明確に目に見えるものとして表われます。というのも僕よりも上の世代のアントロポゾーフというのは、まあ、なんだかんだ言っても精力的にやっている人の大多数が会員になっているんですが、僕と同世代の人は精力的にアントロポゾフィー活動に関っていても、会員に成っている人はずっと少ないんです。そして僕よりも下の世代を見てみると、会員に成る人は本当に僅かです。

こういった現実を見るだけでも、協会が何か誤った道を歩んで来たことは明らかです。詰まり歴史の流れの中で、何かが決定的に「途絶えた」のです。とは言え新しく会員に成ってくれる人は今でも存在します。でも、お年寄りの会員が多いので、毎年どんどん会員が亡くなってしまいます。それに退会してしまう会員を合わせると、新しく入って来る会員よりも多いので、協会全体は毎年100人づつくらい縮小しているんですよ。ですから、この状況が続くならば数年後には深刻な経済問題に直面するだろうことは明らかなんですね。

そういった意味でスイス邦域協会には落日の空気が漂っています。本当に、今の協会は斜陽の様相ですよ。

とは言え、目の前に具体的な問題が有る以上、その問題に取り組むということには常に努力していますよ。例えば今年の一月に開催された『ドライ・ツー・アインス』という青年大会なんかも、その良い例ですね。それと僕はキリスト者共同体でも、同じ様に青年大会を精力的に準備しています。

また、これとは別に全く新しい衝動もあって、それはハンブルグのシュテッフェン・ハルトマンSteffen Hartmann(ピアニスト、アントロポソフィーを基盤においたハンブルク音楽学校講師)と一緒にアントロポゾフィー協会が今後、どういう形で発展してゆくべきなのかという問題に取り組んでいます。これは昨年から始まったことなのですが昇天祭の時期に有志がゲーテアヌムに集まって、協会の歴史に於ける過ちに向き合い、そして場合によってはそれを赦すということもまたする訳です。そして今年の昇天祭ではスイスのアントロポゾフィ—協会主催で『運命による損傷を治療する』というテーマで二回目の大会が開催されます。30.05. – 01.06.2014„Vom Heilen der Schicksalsbrüche“

要するに、協会はこれまでの歩みの中で様々なかたちで「傷ついて」しまった訳です。その破損というか損傷があるということは、例えば死者にとっても深刻な問題です。何故なら生前協会に結び付いていた人が、亡くなってから協会の現状に失望してしまうならば、協会は死者と共に生き、共に歩みを進めてゆく可能性を失ってしまうからです。そういう意味でも協会の傷に向き合い、それを癒していくことは協会として重要な課題なのです。

——以上がグライナーさんと協会との関係だとするならば、御自身とアントロポゾフィーとの関係はどうですか?

最初に述べた様に、両親はどちらともアントロポゾーフであった訳ですから、僕は生まれた時からアントロポゾフィーと関わっていたということになります。しかし、そういった『背景としてのアントロポゾフィー』というのは、思春期には一旦、全く消えてしまうんですね。そんな中で僕が自発的に取り組んだ最初の課題というのがアレイスター・クロウリーなんですね。そして、そこからフリードリッヒ・ニーチェを経由して最終的にルドルフ・シュタイナーの『自由の哲学』に辿り着きます。また『如何にして、より高次の世界の認識を獲得するか』なんかも読みましたが、同時に僕が十九、二十、二十一歳だった頃には、いわゆるエソテリック・シーン、即ちポジティヴ・シンキングやニューエイジにも随分と傾倒しました。ですから色んな師匠(グル)を渡り歩いて旅もしたんですが、基本的にイギリスを含むヨーロッパ圏から出ることは有りませんでしたね。それよりも、そういった分野に関しては本から学んだことが非常に多い気がします。そんな感じで色んな思想家や精神的なことに触れてゆく中で自分の中で明確になったことは「自分には思考の明瞭さが足りない」ということだったんです。そういった意味でもシュタイナーの偉大さというのを改めて実感しました。何しろ彼は「考える」ということが出来るんですから。こうして自分の人生の方向性が明確になったのは二十二歳くらいだったと記憶しています。それは「自分の道はアントロポゾフィーだ」という確信ですね。

それと平行して僕の心中に常にあったことは、第一ゲーテアヌム炎上の光景ですね。それは何時だったか子どもの頃に話を聞かされて、何故だかずっと心の中に残っていました。そして、それをことある毎に思い出していました。ですからゲーテアヌムに対する心配というか憂慮というものは、ずっと僕の心の中に有るんですよ。アントロポゾフィーの将来に対する不安ですね。だからこそ僕は協会活動を「自分のものだ」と心から思うことが出来るんでしょうね。また協会活動を肯定する中で僕が常に気に掛けていることは、アントロポゾフィーに対して深い結びつきが有るにも拘らず、協会に対しては何の関係性も見出せていない人たちですね。ですから僕は、そういった人と現在の協会との間に立つ架け橋に成りたいと思っているんです。

彼等はアントロポゾフィーへの強い結びつきにも関らず、協会の現状に失望してしまっているので、何も始められないでいるのです。ですから、そういう人たちは最初から会員に成らないか、成っても協会の現状に失望して、すぐに辞めてしまう訳ですよ。これは本当に良くないことです。というのも、こういう事態が進めば進むほど、精神的な衝動が徐々に退いてしまうからなんです。

それは多分、様々な古い組織に関して言えることなんじゃないかと思います。詰まり、地上的な組織は権力欲や伝統と言われるようなものによって徐々に硬化し、重くて暗いものになっていく一方で、逆に上の世界では精神的な実質が徐々に向こう側へと遠退いて行くといった状況です。

——器が器として機能しなくなる、ということですね。

そういうことです。でも、そうあって欲しくないからこそ、僕は協会で頑張っている訳ですよ。

——最後に、来年夏の四国での集まりに関して僕が考えていることを言いますね。

僕はそれが必ずしも「アントロポゾフィー講座」である必要はないんじゃないかと考えています。それは「シュタイナー」や「アントロポゾフィー」を排除するということではなくて、国際的な雰囲気の中で飽くまでも人間として他者に接するというか、自分の意見を述べ、そして他者の意見に耳を傾ける、ということを中心にした場を作りたいんです。

というのも僕はドイツやスイスで様々な人から「フクシマはどうなってる」って訊かれたんですけど、自分としては余りにも急なことだったので的確な返答をすることが出来なかったんですね。でも、それについてキチンと答えるということは、国際社会に於ける日本人の使命の一つだと思うんです。

来年の夏には3.11から、もう四年半が経過している訳ですから、飽きっぽい日本人にとってはすっかり『過去のこと』になっているのかもしれません。しかし、だからこそ——ドイツ人ならば誰もが興味を持つフクシマに限らず——地震や津波による被害や、その後の状況について報告をすることは、国際社会の中で日本が果たすべき課題だと思うのです。

当然、外国から来たお客様から聞くべきことも沢山あるんでしょうけど、逆にグライナーさんを始めとするヨーロッパの人たちに、僕たち日本人の側から言うべきことも沢山ある様に思えます。こういったことも、来年の夏の集まりのひとつの重要な動機(モチーフ)にして良いのではないかと思います。


それは良いアイデアですね。

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*月の交点とは黄道面に対して月軌道のが交わる点、或いは天球上で黄道と白道とが交点を意味する。月の交点は歳差により黄道上を移動して約18.6年で一周するので、このリズム(周期)を月の交点(ムーン・ノード)と呼ぶ。第一回は本文中にも述べられている様に18歳と7ヶ月頃、第二回は37歳と2ヶ月、第三回は55歳9ヶ月、第四回は74歳4ヶ月と続く。


Johannes Greiner ヨハネス・グライナー
ピアノ教育を専門とする音楽家(SMPV)でありオイリュトミスト。ピアニスト、指揮者として活動し、音楽史や文化史、或るいはアントロポゾフィーに関する講演や講座を各地で開催しており、また教師としてヴァルドルフ学校の生徒に授業もしている。アントロポゾフィー協会の仕事としては2005年からスイス邦域協会の理事会に参加し始め、2006年より正式に選任された理事としての活動を始めている。主に取り組んでいる課題は現代に於ける文化的な現象の背景を、アントロポゾフィーの視点から解明することと、もしルドルフ・シュタイナーが現代に生きているならば、何を言い、そして何を行うであろうかという疑問。リンク


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