2013年9月5日木曜日

イデアと感覚物の相克、消え去ろうとしている命へのオマージュ

"Time/Timeless/No Time"  2004.  Walter De Maria

文:丹羽敏雄
Text : Toshio Niwa

2013年7月25日、アメリカの芸術家であるウォルター・デ・マリアが七十七歳で亡くなりましたが、クライス企画のNAOSHIMA BOAT TOURは奇しくも、その二日後のことでした。 チャーターした漁船に乗って朝10時に高松港を後にしたツアー参加者一行は、11時に豊島美術館(母型)に入りました。昼食後は豊島から直島へと船で移動し、海岸沿いに点在する屋外作品を炎天下で見ながら午後3時から李禹煥美術館、更に4時からは地中美術館を見学します。そして地中カフェで軽い夕食を食べて一休みした一行は、それから夜7時に始まるナイトプログラムに参加しました。これはジェームズ・タレルの作品である『オープン・スカイ』を日没に合わせて閉館後に鑑賞するという45分間の特別プログラムで、金曜日と土曜日にだけ開催されています。 以下の文章は翌日に高松で開催された『射影幾何とユークリッド幾何  ~天上性と地上性を結ぶ〜』の講師である、丹羽敏雄氏による紀行です。

『母型』

夏の強い日差しが容赦なく照りつけるなか、バスが島(豊島)を登っていくにつれ、周りには少し靄のかかった青い海原が眼下に広がりを見せる。辺りは競いあうような蝉時雨が耳にかしましい。海と強い夏の日差しと蝉時雨。それは決まって私を、子どもの頃、毎年夏休みになると過ごした海の街の記憶に誘う。あのときもそうだったが、ノスタルジックな気分、時が歩みを止め、奇妙な静けさが心の内に広がる。どこまでも遙かな過去に戻っていくような・・・。



そんな私の目の前に、白く輝くドーム状の、地を這うような建物が見えてくる。それは『母型』と名付けられた、建築家西沢立衛と内藤礼の協作になる「作品」である。すべての「施設」が、曲線的に造られ、辺りの豊かな緑のなかに静まり返っている。円周状に周りを回りながら『母型』に近づいていく。小さな入り口から腰を屈めるように内部に入っていくと、緩やかに波打つように白い床が広がっている。かなりの人々があちこちで座ったり寝そべったりしながら、想い想いの姿で昼下がりの一時を無言で過ごしている。

天井にうがたれた2つの大きな丸い穴からみえる空の青と建物の白の対比がまぶしく、静けさを際立たせる。床に目をやると、所々に水たまりがある。よく見ると、その水たまりが奇妙な形となって突然動きだす。一列になって動いたかと想うと、いくつかの列が一つになって勢いを増したりもする。腹ばいになってその動きを間近にすると、あたかも生き物のように見えもする。あるところではその水が床にうがたれた小さな穴の中に吸い込まれ、微かで澄み渡った水琴音を響かせる。また所々に開けられた小さな穴から間欠的に水が極僅かに吹き出してくる。白い丸屋根に包まれ、子どものように飽きもせず、そんな水の作り出す戯れに見入る。天井の大きな丸い穴には蜘蛛の糸を思わせるような透明な紐が風に身を任せ静かに揺れている。

光と風と水の戯れ、それを静かに見守りながら覆う白いドーム。『母型』!

それらすべてが否応なく、フランスはル・コルビュジエのロンシャン聖堂へと誘う。東と西の違いはあれど、どちらもが安らぎと懐かしさに満ちている。そう、時間を超えたものに捧げられたモニュメントなのだ。ロンシャン聖堂の形態は船に擬せられたりもする。大きな船底を想わせる下側に湾曲した天井は、壁との間に細いスリットを設けるという建築的工夫もあって、圧迫感ではなく、むしろ浮遊感すら与えている。小さなステンドグラスを通して生まれてくる色光が内部に導かれていることもあり、何やら海の中を漂うような気分もする。そう言えばフランス語では、海も母もラ・メールと発音する。

"ロンシャン礼拝堂"  Le Corbusier (Foto:Yuta Takahashi)



一方、『母型』は夏の昼盛りの強い日差しもあずかって、なにやら時を止めた影のないアッケラカンとした母性の匂いがする。床をチョロチョロ流れる水は、まことに天真爛漫な幼子の様。海のうねり、嵐の海の逆巻く怒りさえも内に孕んだ奔流とは、なんという違い。これも水、これも母。


李禹煥美術館

豊島を離れ、しばし潮風と塩の水しぶきを顔に浴びながらの船旅の後、直島に上陸する。相変わらず日差しは強い。バスを乗り継ぎ、李禹煥美術館にたどり着く。

ゆったりとした緑の傾斜地にそれは建つ。緑の傾斜を目で追っていくと、遠くには海が広がっている。心地よい風が火照った体に心地よい。美術館の入り口前には『柱の広場』。少し大きな茶色がかった岩とオベリスクのようにそそり立つコンクリート造りの六角柱、そして一角が少し反っている厚く四角い黒い鉄板が、見事に敷き詰められた真っ白な砂利の上に置かれている。一方は高いコンクリートの壁、残りは自然の土手や芝生につながっていく。白い砂利面は毎朝、丹念に掃除されているという。すべてがこのように研ぎ澄まされ、何事もないかのように、ただそこにある。点・直線・面と、それ以上に単純にしようがない構築物、思考の織りなし。周りの静かで豊かな自然がなければ、ひょっとして思考で窒息されてしまいかねない姿。数学者として思考の世界に生息してきたはずなのに、思考が感覚世界に生の姿を取って現出すると、息苦しささえ感じさせられてしまう・・・。フランス庭園のように思考と意志が自然を支配し、それを造形したものには決して感じない「息苦しさ」。これは、思考というよりも、微かな揺らぎをはらんではいるが、凍ってしまった意志あるいは感性なのか? 一見、同じような感性で作られているかに見える龍安寺の石庭とは決定的に違う何かがここにはある。龍安寺はまさに15世紀、人類が意識魂の時代に入ったそのときに作られた。言わずと知れた禅の精神に裏打ちされた枯山水の庭園である。それは、動乱の時代の命の激しい営みが背後にある自律への意志としての禅がもつ静けさである。一方のこの「庭園」。禅的なものを漂わせながら、もはやそこには激しい命の営みはない。その代わりにあるものは何? それは、枯れ果てて行く命? それとも復活しようとする命?

『柱の広場』 李禹煥



この前庭から両側を屹立するコンクリート壁で挟まれた狭い通路をしばし歩んで、建物の中へと入っていく。巨大な壁に守られ、奥深く暗く狭い至聖所に導かれるという、エジプトの神殿がふと頭をよぎる。

『柱の広場』に似た『照応の広場』を通って、『出会いの間』へ。前衛的な書にすこぶる類似したモノクロームの「絵画作品」が六つ、四方の壁に掛けられている。中央の床には厚い鉄板が置かれ、そのうえには自然石状の石が置かれている。精神と意志の緊迫感と、感情の非常に抑制された揺らぎ。機械的なリズムに落ちゆく寸前の思考のリズム。足音をさせるのが憚られるように、そっと忍び歩く。命の躍動と色彩の乱舞が欲しいと、切に願う。

そして『沈黙の間』へ。大きなさりげない、少し褐色がかった自然岩と後ろに立てかけられた黒い鉄板。ぼんやりとした光がそれらに注がれている。あふれる夏の光の中にあった『柱の広場』とは異なり、この「作品」は基本的に暗がりの中にある。それが「息苦しさ」を和らげる。むき出しの思考ではなく闇に包まれた思考。いや思考に写しだされた物質。命や心というものから離れた「純粋な物質」がもつ安らぎなのかもしれない。

『沈黙の間』2010 李禹煥



それから『影の間』へ。狭い空間の中央に石が置かれ、その前の石の影には水と光の揺らぎに満ちた映像が映し出される作品は、人を瞑想に誘う。突然に時間が動き出す。そうして、終にはこれ以上単純にはできない小さなモノクロームの「絵」が数枚掛った『瞑想の間』へと至る・・・。


いよいよ地中美術館へ

この地中美術館は3つのある意味で根本的に質の異なった作品が納められている。モネの『睡蓮』と「光の芸術家」ジェームズ・タレル、そしてウォルター・デ・マリアの作品である。ルーブルの近くに位置するオランジェリーの睡蓮の部屋は余りにも有名であるが、この地中美術館に納められたモネの五作品は私には少し劣るように感じる。しかし、安藤の設計になる賽の目に刻まれた小さな白い大理石の敷き詰められた床の独特の質感がかもしだす雰囲気でそれが救われているように感じる。本当に贅沢な作りである。確かに、間接自然光に照らし出された、この「贅沢な」白い空間に置かれた『睡蓮』は、純粋にその作品のイデーが現出されているのかもしれない。あるいは、その空間が持つイデーに、逆に、仕えているのかもしれない。

そして、歩みを進めて行くと、突然バルコニーかと見まごう「外」に出る。天上をみると一部が四角に切り取られ、そこから空が広がっている。それはジェームズ・タレルの『オープンスカイ』である。こうして毎日目にする空の一角が切り取られると、何やら心をそそられてしまうのはなぜだろうか? 私たちの普段の心は眠りこけ、純粋な感覚知覚を持つことがいかに困難であるかを示しているのだろうか。私たちは今回、この部屋で夕暮れから夜へと向かう時間を持つことができた。四方の壁の上の方から薄く微妙に変化する光が天井に投げかけられ、その光が作りだす色彩と、開口部に見える夕暮れから夜に向かう空の色が相和して、実に不思議な色彩が現出する。まことに生きたゲーテの色彩論の世界である。それは、私たちに長時間首を上向けることを強いる拷問に耐えるに十分な魅力を持っている。

"Open Sky"  2004.  James Turrell



それから『オープン・フィールド』の部屋へと進む。あらかじめ大きな期待とともに迎えた、タレルのその「光の魔術」は期待に違わず忘れがたい体験となった。月並みではあるが、光の海の中に身を浸す体験は圧倒的であった。3次元の確固たる空間性が消え失せ、それとともに拠り所たる「知性」がうろたえ始める。そして純粋に宇宙的感情の世界に浸りきるのである。宇宙的思考と意志である、光と陰の交わりが作り出す、宇宙的感情である色彩がまさに眼前に広がっている。その色彩の海に浸っていると、色彩が漂い始め、思いがけず微妙に変化していく。この体験は確実に私を、36年前のナポリの沖合の島にある「青の洞門」での体験につなげる。狭い洞窟の入り口から深い海を通して注がれる真っ青な光に、周りをすべて取り囲まれ、乗っている小さなボートの微かな揺れなのか、私を浸す青い光そのものがもたらす揺れかも判断できない程に、青そのものに浸り切る体験であった。しかし、その時の体験は、同時に、周り一面の海水の存在をひんやりとした空気とともに感じてもいた。今回の体験は、そうした質感ないしは存在感なしの、色そのものの体験であった。

さて、デ・マリアの作品、『タイム・タイムレス・ノータイム』である。それは大きな階段の部屋。いつか見たローマ皇帝の玉座にそれは似て、圧倒的なある種の威厳に満ちた部屋のまさに中央に、黒々とした2メートルあまりの巨大な球体の御影石が置かれている。天井からは自然の間接光が穏やかな光を投げかけている。そして壁に沿って、マホガニーで造られた様々な角柱が3本の組となって所々に置かれている。それらはすべて金箔によって覆われている。なぜかそれらが浮遊しているような質感を感じるのは、中に置かれた黒々とした圧倒的な球体のなせる技であろうか?

完全な幾何学的形態と御影石という濃密な自然素材とがそこには互いに居心地の悪さを感じさせながら同居している。アリストテレスの質料と形相という言葉が突然浮かんでくる。自然物は当たり前のことながら、つねに実質素材と形を不可分のものとしてもっている。しかし、形が余りに完全であり、その完全な形態に素材が支配されるとき、それらはそれぞれの存在を主張し、互いから離れようとする。このような光景を目の当たりにすると、それまでのなじみのある現実の世界が理念界に近づく。いや、理念界が現実界に近づいてくる、というべきであろうか。それにしても、この完璧な球体はやはり完全な中央に置かれていなければならない。それ以外の場所に置かれると、世界が歪んでしまうだろう。

"Time/Timeless/No Time"  2004.  Walter De Maria



エピローグ

こうしたある意味強烈な芸術体験は、私の霊を目覚めさせ、魂をざわつかせる。・・・だから、あの日常の心の怠惰が懐かしくなって、それに帰ろうとする。

しかし、これらの芸術体験をしっかり受け止め内に沈みこませることができれば、世界という、あるいは、私という存在が秘める新たな地平が垣間見えるかもしれない・・・。


2013.8.28


丹羽 敏雄(津田塾大学教授 理学博士)
1943年大阪生まれ 1966年京都大学理学部数学科卒業 津田塾大学教授 英国バイオグラフィー、社会発展のためのトラスト認定バイオグラフィーワーカー養成コースを2006年に終了 数学の教育、研究の傍らアントロポゾフィーに長く関わる 近年はゲーテとシュタイナーによる自然観と自然観察法である「ゲーテ的科学」とアストロロジーに興味を持っている

著書『数学は世界を解明できるか』(中公新書)『沈黙のコスモロジー』(遊星社)『射影幾何学入門―生命の形態と数学-』(実教出版)他 訳書『植物への新しいまなざし』(涼風書林)『シュタイナー学校の数学読本』(三省堂、共訳)他


このエントリーをはてなブックマークに追加
Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...

0 件のコメント :

コメントを投稿