2013年7月11日木曜日

SAKS-BOOKSから『キリスト存在と自我 〜ルドルフ・シュタイナーのカルマ論〜』の電子書籍ヴァージョンを発売


SAKS-BOOKSから発売された電子書籍『日本の民族運命と今後の課題』に続く第二弾『キリスト存在と自我 〜ルドルフ・シュタイナーのカルマ論〜』の電子書籍ヴァージョンが発売となりました。本電子書籍は2013年3月下旬に発売されたキリスト存在と自我 〜ルドルフ・シュタイナーのカルマ論〜』を底本としており、電子版にあわせて見出しの数を追加したヴァージョンとなっております。立ち読み可能な電子版サンプルから大幅に本文内容をプラスした特別版の転載記事と共にご紹介致します。

文:ミヒャエル・デーブス|Michael Debus
訳:竹下哲生|Tetsuo Takeshita
もくじ
キリスト存在と自我、過去の自分、『神秘学概論』、仏陀の教え、出口の無い苦しみ、魂の牢獄としての体、「自分になる」ための教育、教育に於ける年齢の意味、学校を卒業してからの学び、古いカルマと新しいカルマ、成長の糧としてのカルマ、自然界と道徳性、人間の価値と未来、『人類の教育』、カルマの結果と肯定する力、祈り、宗教と学問、祈りの対象、学問の普遍性と宗教の具体性、祈りの内容、親子の葛藤と対話、自立した人間の祈り、感謝と願い、自立しているからこそ必要な「支え」、共同体へ向かう個人とその現実、「暖かさ」に支えられる個人、個人では不可能なことを共同体は達成する、祈りの実践、天使との対話、他

(※記事として立ち読み可能なのは太字部分です。本もくじは電子ヴァージョンから引用。)


キリスト存在と自我
人間は思考力を持っているが故に、自らの存在に疑問を持ちます。それは詰まり、自分という存在の由来に興味を持つということです。

仮に「現在の自分」は三十五歳で結婚して子どもを持ち、四国に住みながら建設会社に勤めているということにしましょう。そして、ここで問題なのは、私は如何にして「現在の自分」に至ったのかということです。一般的な社会生活に於いては多くの場合、こういった疑問は最終学歴によって答えられます。詰まり「オックスフォード大学卒業」ということです。確かに学歴によって人間を評価することは正当ではないかもしれません。しかし高等教育に於いて体験したことが「現在の自分」を形成する為に、本質的な役割を担っていることもまた事実なのです。ですから、ここでは評価の基準ではなく、人間の内面的な成長の過程に注目したいと思います。

そしてオックスフォード大学に入学した自分は、それ以前に通っていた高等学校に於ける体験に由来します。このように自らの由来を探究する者は更に中学校、小学校、幼稚園に於ける体験と次々に過去に遡り、最終的に自らの「記憶の出発点」に至ります。人間が最初に持ち得る記憶は、およそ三歳ぐらいの年齢のものです。ですから奇妙なことに人間は、誕生してから最初の三年間に体験したことを何も覚えていないのです。この事実は、ここで問題になっている「現在の自分」が、地上的な存在と未だ密接な関係性を持っていないことに由来しています。

確かに三歳以前の体験の記憶を有している者もいますが、そういった例外的な事実はここでは全く問題になりません。何故なら三歳以前の記憶が有る者も無い者も、自らが人生の最初の三年間に体験したことは、両親に尋ねることが出来るからです。こうして我々は自らの「存在の由来」に関して——記憶の限界を超えて——少なくとも自分の誕生日にまで遡ることが出来ます。そして欧米に於いても日本に於いても、自らの誕生を知ることで「自分は何処から来たのか」という問いに対して、差し当たりの終着駅に辿り着きます。但し、韓国に於いては更に過去に戻るのが通例です。何故なら韓国では、受胎時期から年齢を数え始めるからです。ですから韓国人は、日本人よりも常に一歳年上なのです。

それ以前についてはどうでしょうか。現代社会に於いて「誕生以前の自分」について問い掛けるならば、そこでは恐らく「何も無い」という答えが返って来るでしょう。しかし我々は本当に「無」から遣って来たのでしょうか。或いは我々は、それ以前にも何らかの形で「存在していた」のでしょうか。誕生や受胎は、人間の「物質的な存在」の出発点を指しているに過ぎません。逆に人間を物質的な存在に限定しないならば、確かに「それ以前」について考えることは可能なのです。ですから「誕生以前に人間は存在しなかった」と考えられるのは、余程無知な人間に限られているのです。

人間は大人に成ってしまうと「誕生以前の自分」について全く何も分からなくなってしまいますが、子どもにとってそれは少しも難しい問題ではありません。何故なら子どもは、この感覚的な世界に体を持って生まれ降りて来る以前に、純粋に内的な存在として精神的な領域に居たことを知っているからです。これは子どもという存在が、未だ精神的な世界との関係性を保っているという事実を示しています。生後三年間に体験したことの記憶が無いのは、人間の本質が未だ地上的な存在と密接な関係性を持っていないからだと先ほど述べましたが、確かに子どもは地上的な存在との関係性が希薄であるのに対して、精神的な領域とは寧ろ密接な関係性を持っているのです。

我々の出発点は「如何にして私は現在の自分に成ったのか」であり、また「自分は何処から来たのか」でした。そして自らの記憶を遡り最初の記憶に至り、更に記憶の限界を超えて誕生に至り、受胎以前に魂だけの存在として天界を漂っている状態にまで辿り着きました。そして、これより先に遡るならば意見が分かれることになるかも知れません。誕生以前の純粋に精神的な存在であった状態から更に過去に遡るならば、第一に考えられるのは現在の自分と同じように体を持った存在として感覚的な世界に生きている人間存在に再び直面することです。そして第二に考えられるのが、我々がこの感覚的な世界に舞い降りて来たのは今回が全く初めてのことで、死んでしまうと体を持ってこの世に生れることは、もう無いということです。

ここで我々は「死は眠りの兄弟である」という古代の叡智に注目してみたいと思います。この古代の叡智は、睡眠時の人間の魂は体という制限から自由になり霊的な世界を生きているという点に於いて、死後の魂に似た状態にあるという事実を示しています。そして眠っている人間も朝が来れば目覚めるように、一度死んだ人間もまた一定の期間の後に再びこの世に生を受けるのです。詰まり、ひとりの人間の人生に於いて入眠と覚醒が一度きりの出来事ではないように、一個の人間本質にとって誕生と死もまた一度きりの出来事ではないのです。

実際、人間が何度も生まれ変わる存在であるという事実を、子どもは全く当然のことと感じています。だからこそ子どもは「生まれ変わったらこうなりたい」などということを、誰に教えられるでもなく口にするのです。人類の長い歴史に於いて、人間が生まれ変わるということは誰もが知っている「当然の事実」でした。確かに現代に於いては、この「当然の事実」が非常に疑わしいものと見做されるようになっています。しかし子どもに於いては未だ、そういった認識が「残っている」と考えることが出来ます。詰まり過去の人類が精神的な領域と深く関わっていたが故に輪廻転生の思想を持っていたとするならば、未だ地上的な存在と完全には結びついていない子どもが、同じように考えることもまた全く当然のことなのです。「成人に比べて未だ精神的な領域との密接な関係性を保っているが故に、子どもは我々にとっては身近な感覚的な世界を正確には把握していない」という認識は、子どもを理解するにあたって非常に重要なことです。ですから、例えば自分の子どもが無邪気に「生まれ変わったらこうなりたい」と話しているのを聞いて強い反感を覚えるのは、子どもの本質を理解していない親なのです。


過去の自分

こうして我々は人間の本質に関する、より包括的な観点を手に入れました。一般的な社会に於いて人間存在は常に「体」という目に見える要素と結び付けて考えられますが、誕生前や死後に於いて霊的な世界に「生きている」魂もまた、人間存在の或る側面として理解することが出来ます。死ぬということは眠りと同様に人間本質の「状態の変化」に過ぎません。そして「目覚める」ということが「元の体に戻って来る」ということであるのと同様に、「この世に生まれる」ということは「新たな体を手に入れる」ということを意味します。だからこそ西洋に於いては生まれることを「受肉」と呼ぶのです。生まれるということは即ち、それまでは体を持たない純粋に精神的な存在であった魂が、物質的な存在である「肉」に結びつくということです。天界を漂っていた魂が、地上的な肉の存在である「体」と結び付くことが誕生なのです。ですから人間が生まれて来るということは、魂が天から地に降りて来るということなのです。この事実は、生まれて間もない天から降りて来たような顔をした子どもを見たことがある者であれば、誰もが納得の出来る事実だと思います。そして、現在の自らの受肉状態を「現世」と呼ぶのに対して、現在の受肉状態に先行する受肉を「前世」と呼ぶのです。

前世に於いて我々は、現在とは全く異なる姿をしていました。ですから、仮に「今の自分」が「過去の自分」に出会ったとしても、その人間が「自分と同じ人間である」と理解することは非常に難しいのです。例えば日本人の女性が自らの前世を見たときに、それはスウェーデン人の男性かもしれないのです。その人は、このスウェーデン人の男性を見て「これは自分だ」と思うことが出来るでしょうか。恐らく、その人は全く何も気が付かないことでしょう。更に言うならば、我々は自分の前世を自分であるということが分からないばかりか、その人物から寧ろ好ましくない印象すら受けるかもしれないのです。こうした例をひとつとっても、我々が「自分という存在」について考えている場合、殆ど「自分の体」についてしか考えていないことが分かります。自分が女性であることや日本人であることは勿論、自分の気質や性格や才能なども、主に自分の体の特性について考察しているに過ぎません。体というものは「本来の自分」が自分以外の存在から譲り受けたものであり、この譲り受けた存在に我々は一時的に結びついているに過ぎないのです。こうして輪廻転生の思想は、全く新しい自己同一性の問題を提起するのです。

さて、こうして我々は自らの前世にまで遡った訳ですが、それ以前はどうでしょうか。仮に現在の受肉に先行する受肉が有ったとするならば、それ以前にもまた受肉が有ったと考えることは当然です。こうして我々は前世の更に前の受肉、詰まり「前々世」に至ることが出来るのです。その前は「前々々世」ですし、更にその前は「前々々々世」ということになります。確かに、こうした考えは幾らか発展させていくことが出来ますが、そこにも矢張り限界が有ります。何故なら人間的な観点からではなく、宇宙的な観点から遠い過去を見渡してみるならば、体を持った存在としての人間が地上に全く生きていなかった時代が確かに有るからです。このことは通常の自然科学的な認識とも一致します。人類は過去に無限に長い歴史を持っている訳ではなく、人類の歴史が始まる以前には、人類の歴史よりも遥かに長い「地球の歴史」があったのです。

人間が「体を持ってこの世に生まれる」ということを始めたのは、長い地球の歴史に於ける或る一時期でした。そして、人間が「死んでは再び生まれ変わる」ということを始めるようになったのは、それ以降のことなのです。人間は過去に無限の数の前世を持っているのではなく、遠い過去の或る瞬間に於いて肉を持った存在として「初めて」この地球存在に結び付いたのです。こうして我々は、全ての受肉に先行する「最初の受肉」に辿り着くことが出来ました。そして、仮に我々が「自分とは何処から来たのか」という問いを、この「最初の受肉」よりも以前に遡って探究するならば、ひとつの大きな障害に突き当たります。何故なら、この「最初の受肉」以前の出来事に関して人間は、記憶を持っていないからなのです。

これまで我々は誕生以前の体を持たない状態や、前世について話してきました。こうした事実は少なくとも一般的な社会に於いては馴染みがないのは、自然科学が探究することが出来ないことに由来します。自然科学の領域は、我々が感覚を通して体験することが出来る領域に限られています。そして魂や前世というものは、手で触れることも出来なければ目で見ることも出来ないので、自然科学に於ける研究対象にはならないのです。科学的な見解ではないものは、全て主観的な「意見」に過ぎません。そして「単なる意見」というものは、社会的にはほとんど価値のないものと見做されるのです。この点に関して我々は、一般に流布している偏見を克服しなければなりません。それは詰まり、「精神的な存在は学問の対象にはならない」という偏見です。確かに自然科学の範疇は、感覚によって体験することが出来る存在に限られています。しかし感覚によって体験することが出来る領域を超える存在、即ち精神的な存在に関しても、矢張り自然科学と同様に「学問的に探求することは出来る」と考えることは出来ないでしょうか。

そして、このように感覚的な領域を超える存在、即ち「超感覚的な存在」を研究する学問のことを精神科学と呼ぶことが出来ます。自然科学が感覚によって体験することが出来る対象物を「学問的に」研究するように、精神科学は感覚によって体験することが出来ない対象物を、矢張り「学問的に」探究するのです。この精神科学は曖昧なものではなく、自然科学と同様に非常に厳密な研究に支えられています。ですから精神科学の領域に於いても、単なる意見に過ぎないものや間違った見解は存在します。これは自然科学の領域に於いても、多くの単なる意見や間違いが存在することと同じです。


『神秘学概論』

さて超感覚的な領域の探求者は、精神的な修行を通して精神的な領域の研究を進めます。これは、例えば数学者が数の研究を進めることと全く同じことです。数学者は全ての数学的真理を最初から全て知っている訳ではなく、数学的な思考を通して自らの内面を成長させ、徐々に数の本質を理解していきます。それと同様に精神的な世界の探究者は、「精神的な修行」を通して自らの魂を精神的な探求に適した形に造り変え、そして精神的な世界の探究を進めるのです。こうして人間は、精神的な修業を通して自らの前世にまで遡ることが出来るようになります。この時、精神科学者にとって前世は「疑う余地のない事実」になります。ですから精神科学の探究者は、前世の存在を実証する必要が全くないのです。これは植物学者が植物の存在を誰にも証明する必要が無いのと同じです。植物学の目的は「植物の実在」を客観的に証明することではなく、「植物の本質」を客観的に描写することにあります。同様に精神科学の目的は前世や魂の存在を証明することではなく人間本質の探究にあり、その過程に於いて超感覚的な事柄を扱わざるを得ないに過ぎないのです。

何れにせよ、精神的な修行を積んだ人間は誕生以前の純粋に精神的な状態を超えて、自らの前世にまで辿ることが出来るのですが、ここに興味深い法則が有ります。それは前世の前の受肉、詰まり前々世に関する探究は、前世に関する探求よりも遥かに難しいということです。そして過去に於ける受肉の探究が遡れば遡るほど難しくなるのであれば、最も難しいのは当然「最初の受肉」に関する探究ということになります。そして、この最も難しい最初の受肉に関する探究以前に遡ろうとする時—先ほど述べたように—或る種の「記憶の障害」に直面するのです。何故なら人間存在は、最初の受肉に於いて初めて地上的な存在と深く結びついたからなのです。そして、この状況が正に、我々が日常生活に於いて直面する、三歳以前の記憶を辿ることが出来ないという状況に相当するのです。

既に述べたように、通常の人間が三歳以前に記憶を持たないのは、人間存在の本質が未だ地上的な存在である体に結びついていないからです。そして人生の歩みの中で人間存在の本質が地上的な存在に徐々に結びついていくことで、「自ら思い出すことの出来る領域」が徐々に生じます。同様に精神的な領域の探究者に於いては、最初の受肉によって初めて「自ら思い出すことの出来る領域」が始まります。ですから「自分は何処から来たのか」という疑問に於いて、自らの最初の受肉以前に遡って探究するならば、それは自分が記憶を持たない領域に踏み込むことになるのです。こうした「記憶の壁」は、精神的な修業によってもまた克服することは出来ません。何故ならば、文字通り「無い記憶」は辿りようがないからです。ですから最初の受肉以前の人間について考察する場合、我々は「自分の記憶」を辿ることとは全く異なる方法を確立しなければならないのです。

そして三歳以前の自らの体験に関して我々は「両親に尋ねる」という手法が有るということを知っています。ですから精神的な領域の探究者が最初の受肉以前の人間について知ろうとすることは、日常的な生活に於いて、両親がどのようにして出会ったのかということを子どもが知ろうとすることに似ているのです。これは見落とされがちなことなのですが、子どもが自分の両親がどのようにして知り合ったのかを知ることは、極めて重要なことです。何故なら子どもにとって「両親の出会い」とは、自分自身の存在を可能にした出来事だからです。そして未だ体を持たない子どもは、この両親の出会いを精神的な領域から見守っていたのです。このように、子どもは両親の出会いを知ることで、受胎や誕生以前の自らの「存在の由来」に触れるのです。

さて、それでは精神的な領域の探究者は、一体誰に尋ねれば良いのでしょうか。その存在とは、自分の両親のように「自分が存在する以前に存在していた存在」でなければなりません。但し、それは両親のように肉体的・物質的な存在ではなく、精神的な存在のはずです。そして、このような存在こそ人間存在を含む感覚的な世界の全てを創造したヒエラルキー存在なのです。ヒエラルキー存在は天使や大天使やアルヒャイといった名前で始まり、全部で九つの位階から成っています。そして我々が生きている感覚的な世界は、この九つの位階から成るヒエラルキー存在が、気の遠くなるような長い時間を掛けて共同で作用することによって生じたのです。そして、これは正に人類にとっての誕生以前の物語りなのです。このように——子どもが両親の出会いについて尋ねて「自分の存在の由来」を知るように——精神的な領域を探究する人間は精神的な存在に尋ねることで「感覚的な存在の由来」を知るのです。そして最初の受肉以前に人間は記憶を持たない訳ですから、この感覚的な世界を創造した過程に関する記憶は「自分の記憶」ではなく人間存在全体にとっての記憶、詰まり「人類の記憶」なのです。

そして正に、こうした問題を扱ったものがルドルフ・シュタイナーの『神秘学概論』なのです。精神的な領域の探究者であるシュタイナーは、人類存在の本質を明らかにする為に精神的な存在に問いを立て、そしてヒエラルキーの創造行為によって先ずは「人間の萌芽」と呼べるものだけが生じ、そして気の遠くなるような長い時間の中で徐々に、この人間萌芽が現在の人間形姿を獲得していった過程を描写したのです。だからこそ『神秘学概論』の中心的な内容が記載された第四章の大部分は、人間が地上的な世界に体を持って降りて来る「以前の」状態に費やされているのです。そこでは人間存在だけでなく、我々が生きているこの地球という惑星存在そのものにもまた、「前世」が有るということが述べられています。そして人間が何度も生まれ変わる中で徐々に現在の状態に至ったように、この地球という惑星全体もまた何度も生まれ変わる中で徐々に現在の状態を手に入れたのです。

こうして我々は「自分は何処から遣って来たのか」という人間にとって極めて重要な問い掛けに始まり、「人類は何処から遣って来たのか」という問いを経て、この地球存在全体の由来、この感覚的な世界全体の由来を知るに至りました。そこでは自分の由来という個人的な問題から始まり人類の由来を経て、地球の由来という普遍的な問題へと発展したのです。そして、そこで明らかになったことは「この感覚的な世界は全て精神的な世界に由来する」ということです。空気中に漂っている水蒸気が凝縮して水滴となるように、ヒエラルキー存在の創造行為によって精神的な実質は、物質的・感覚的な存在へと凝縮したのです。そして、これこそ正にルドルフ・シュタイナーの精神科学、即ちアントロポゾフィーの本質的な内容なのです。そこに於いては人間の本質に関する問題が、通常の自然科学と何ら変わらない「学問的な手法」によって探究されています。そして自然科学とアントロポゾフィーの相違は、前者が感覚を通して探究することが出来る領域のみを対象としているのに対して、後者は感覚を通して探究することが出来ない領域もまた、研究の対象としているところにだけ有るのです。そして——これまでの考察に於いても明らかなように——超感覚的な領域に足を踏み入れることなく、人間存在の本質を解明することは不可能なのです。…………

著者・訳者
ミヒャエル・デーブス(Michael Debus)
1943年シュトゥットゥガルト生まれ 数学・物理・哲学を専攻した後、キリスト者共同体司祭養成ゼミナールで神学を学び1969年に司祭に就任 1978年から2007年迄同ゼミナール指導責任者を務め、ヨーロッパはもとより海外でも多くの講演活動を行う 神学、アントロポゾフィー、現代史をテーマとした著作や記事の執筆を多数手掛け、シュトゥットゥガルト・アントロポゾフィー協会の中心メンバーの一人でもある これまでに三度来日しており、東京を始め九州、四国、関西など日本各地で講演をしている

竹下 哲生 (たけしたてつお)
1981年香川県生まれ 2000年渡独 2002年キリスト者共同体神学校入学 2004年体調不良により学業を中断し帰国 現在自宅で療養しながら四国でアントロポゾフィー活動に参加

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