2013年4月24日水曜日

美しいエーテル体(日本語訳)|@Das Goetheanum Nr.16 20.April 2013









文:竹下哲生
Text : Tetsuo Takeshita
ひとりの日本人が、自らの民族の礼儀作法について考察する。それは集団の“空気”のものであり、社会生活に水のような秩序を与える。

ぶつかるのか、曲げるのか

西洋の社会に於いて典型的な挨拶とは握手ですが、これは日本人である私にとっては頭突きのようなものです。そこでは相手に「ぶつかる」ことを通して他者の存在を意識する訳ですから、握手は宛ら「行儀の良い頭突き」なのです。対して東洋的な挨拶の典型はお辞儀ではないでしょうか。そこで重要なのは相手との距離であり、腰を曲げる角度であり、顔の向きであり・・・兎に角、土のエレメントに特有の「衝突」を見いだすことは出来ません。このように東洋的な人間関係は水のように流動的なもですから、他者に「ぶつかる」ことほど非礼なことは有りません。逆に地上的・固体的な要素が支配的な西洋の人間関係に於いては、誰にもぶつからない人間は誰からも気付かれない、と言うことが出来るでしょう。


集団の“空気”

思春期に入る前の子どもはアストラル体を持ってはいるけれども、それは未だ完全には体の中に引き入れられていない、ということがアントロポゾフィーの人間学に於いては述べられていますが、この「未だ生まれていないアストラル性」のことを我々日本人は日常的に“空気”と呼んでいます。ですから日本社会では、個人の有する個的なアストラル体に加えて、“空気”と呼ばれる集団の有する共同のアストラル性を考慮することが求められるのです。そして、このような人間関係の中で不適切な振る舞いをする者は、立ち所に「空気を読め」と言われます。この言葉は、その場の雰囲気にそぐわないことをした者に、反省を促すものです。当然このようなことを言われることは、ばつの悪いものです。日本の文化は「恥の文化」と呼ばれていますが、このような気まずく恥ずかしい体験を通して我々は集団生活の中で何が正しく、何が間違っているのかを学ぶのです。そして、このような中で正しい教育を受けた日本人は節度有る行為をし、的確に空気を読むことが出来るようになるのです。「空気を的確に読むことが出来る」ということは即ち、或る集団の中で常に正しく振る舞うことが出来るということなのですが、ここで注目しなければならないのは、それは「空気に対して正しい」ということであり、空気の所有者は個人ではなく集団だということです。このような意味に於いて、空気の中で常に正しく振る舞うことの出来る者が、礼儀作法に於いて模範的であることは言うまでもありません。しかし「礼儀正しい」という意味に於いて社会性を持った人間は、同時に「集団の奴隷」であると言うことも出来ます。

共同のアストラル的空気は人間関係の中で培われることを通して、徐々に水の領域、エーテル的な水準まで凝縮し、降下することで礼儀作法の中に自らを開示します。礼儀作法とは、共同のアストラル性の範囲内での「正しい行為」に他なりません。そして、この種の礼儀作法はエーテル体に基づく民族の言語と同じような機能を有しているが故に、同じ民族内に於いては有効であっても、全人類的・普遍的な道徳性は有してはいないのです。


間違いを犯さないエーテル体

喋り方や身振り手振りを見れば、その人が礼儀正しい、行儀の良い人間であるか否かは一目瞭然です。詰まり礼儀作法とは習慣の中に、詰まりエーテル体を通して表現されるものなのです。正しい教育が施されていることを日本語では「躾」が行き届いていると表現します。そして、その漢字は「美しいからだ」を意味します。但し、ここでの「からだ」とは肉体というよりは寧ろ、エーテル体を意味していると考えるのが適切でしょう*。ですから躾が為されるということは、日本に於いてはエーテル体が美しくされるということなのです。美しいエーテル体は、間違いを犯すことが有りません。そして美化されたエーテル体に支えられることで、可能な限り失敗をしない、即ち「恥をかかない」人間に育てることが、日本に於ける教育の理想なのです。

以上のような意味に於いて、礼儀作法とは「非個人的な感情」であると言うことが出来ます。それは「外から与えられたもの」であり、集団生活の中でエーテル的領域まで凝縮することで習慣の中に実現されるのです。このように「外から形成されたエーテル体」は、社会生活での人間を水のようにします。水のエレメントは衝突しませんから、行儀の良い人間とは社会生活の中で摩擦を引き起こすことの無い、「非の打ち所の無い」人間であるということが出来ます。社会の構成員の全てが、このような「行儀の良い」人間である限り、社会生活の中に諍いは起らない、詰まり、そこには「平和」が在るのだと言うことは出来るでしょう。しかし「個人としての人間の価値」を、社会生活に於ける「平和」と同等に尊いものだと見做すならば、これまで述べて来たのとは正反対の道が必要になります:

なぜなら、法的な関係は、社会生活のなかで感情と感情がこすれ合い、そして互いに滑らかにされる、という仕方でしか発達することができないからです。人びとが互に感じ合うことから、公法は生み出されるのです。
ルドルフ・シュタイナー『社会の未来』高橋巌:訳 春秋社 78P

慎み深いエーテル体が、アストラル体どうしの相互の衝突を回避している限り、法的な人間関係が生じることは有りません。ですから、結果として東洋に於いては人権意識の発達が最も未熟なのです。この事実を肯定的に解釈するならば、我々は「未だ」法を必要としていないのです。逆に眼差しを西へと、詰まり新大陸へと向けるならば、東洋とは正反対の現象を見出すことが出来ます。形態学的に地理を見ても明らかなように、形成原理の偏重が見られる合衆国では、土のエレメントに特有の固体の要素が強く出ているが故に、法生活の中で個の要素が強く出ているのです。そのような法生活の中で、巨大な企業を相手に、一個人が全く「個人的」と思われるような提訴をする姿を見て「恥知らず」と感じるのは、寧ろ東洋的な感覚と言えるでしょう。このように、法生活に於ける「西」の問題は、冒頭から述べて来た「東」の問題とは根本的に異なる色彩を持っているのです。


個的なアストラル体

肉体の中に引き入れられた、即ち「既に生まれた」アストラル体を有する人間によって構成された社会は、現代的な意味に於ける法生活を培う可能性を持っています。対して共同のアストラル性が個々人を「統制する」という社会生活に於いては、人権意識は希薄なものになります。そして、この問題は単に東洋だけのものでは有りません。何故なら現在、全人類は第二7年期と第三7年期の移行期に直面しているからです。ですから個的なアストラル性が本当に肉体の中まで引き込まれているか否かは、西洋に於いても同様に重視されるべき問題なのです。そしてアストラル体の地上界での誕生を通して人間は、個人としてカルマ的体験に目覚めることが可能となるのです。

アストラル体が肉体にまで浸透している者を「受肉した人間」と呼ぶことが出来ますが、そのような人間は「内面」を持っていると言えます。このようにアストラル体の受肉は、内界と外界の区別を可能にします。そして外と内の違いが明確な者が、例えば病気になるならば、その人は自己憐憫の情から「どうして私は病気になったのか」と自問することはありません。何故なら本当の内的生活を持っている者は、自らを「外側から出来上がったもの」としては考えずに、「内側から成長するもの」と考えるからです。ですから受肉したアストラル体を有した者が病気になるならば、その人は先ず「この病気が私を何処へ導いてくれるのか」ということに興味を抱くでしょう。詰まり彼にとってはカルマ的な原因よりも、結果のほうが重要なのです。こうして過去を基準にした時間の体験は、未来に対して開かれます。逆転したアストラル的な時間の流れは、受肉したアストラル体によって可能となるのです。そして、この様な意味でのカルマの体験、そして時間の体験こそが、健全な法生活の基盤なのです。


PDFで見る(ドイツ語)
週刊『ダス・ゲーテアヌム』16号 2013年4月20日 12ページ






以上の文章は、週刊『ダス・ゲーテアヌム』に掲載された記事を、筆者本人が翻訳したものです。言うまでもなく原文は欧米文化を生活領域とし、ドイツ語を理解する読者を想定して書かれたものですので、日本人には伝わりにくい部分が有るかもしれません。しかし情緒的な日本人の内面生活を、悟性的な西洋人に理解可能なものにするという原文の記事の特性を保持するために、執筆は飽くまでも「翻訳」の範囲内に留めました。但しアントロポゾフィー的な基礎知識が必要な部分は適当に言葉を足し、逆に日本人にとっては余りにも自明な補足説明の箇所は敢えて訳出しませんでした。

*「体当たり」という慣用表現を見ても分かるように、「体」という言葉は土のエレメント特有のイメージを持っているので「肉体」的であるのに対して、「身」という言葉は水的です。体を衝突から回避する「受け身」は人間を水のように壊れないものにする性質を持っていることからも、「身」という言葉にはエーテル的なイメージが優勢ですし、言語音の響きからも、「カラダ」は固体的で堅いのに対して、「ミ」は流動的で柔らかいと言えます。

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