2012年9月11日火曜日

【レポート】『Design Study 7.29』〜ファッション篇〜 から



衣服で自らを美しく着飾りたいと思う者は、自然とファッション雑誌を手にするのではないだろうか。何故なら芸術家でもない限り、純粋に内的な衝動から美を生み出すことは難しいからだ。こうして人間は芸術的な領域に踏み込むときに、七歳までの子どもと変わらない状況に陥る。詰まり、そこでは多かれ少なかれ「模範」に頼らざるを得ないのだ。

全く当然のことだが、ファッション雑誌を開くと大勢のモデルが様々な美しい服を着ている。そして自らを美しく着飾りたいと願う者は、そのようなモデル(=手本)の着熟しを「真似る」ことで自らも美しく成ろうとする。しかし一般にモデルと呼ばれる人間の手足は細く、そして長い。また体全体に対して顔が極めて小さいことも、多くのモデルに共通する特徴なのではないだろうか。仮に、このような人間が着ると美しい服装を、手足が短く顔の大きな人間がそっくりそのまま真似てしまうとどうだろうか。恐らく、その人からは「体に合わない小さな服を無理矢理に着ている」という印象を誰もが受けるだろう。そして、その体に合わない服を着ている本人は鏡を見て「自分はスタイルが良くない」と感じるのではないだろうか。

これが服を着る側の見ている風景だとすると、服を作る側の風景について考えてみることも出来る。服飾を生み出す側の人間は、ただ既製服を買って着るだけの人間よりも遥かに能動的に服に関わっているのは言うまでも無い。そして、そのような人間が自らの創造活動に制限を設けたくないのもまた当然のことである。手足が細長く顔が小さい体には様々な形、様々な色の服を着せることが出来るのに対して、手足が短くずんぐりとした体に着せることが出来る服は限られている。だからスラリとした「モデル体型」のマネキンはよく見かけても、太った恰幅のマネキンは稀なのだ。詰まり“日本人離れした”モデル体型とは、「それそのものが美しい」のではなくて、「美しい服を着せることが可能な選択肢が多い」に過ぎない。換言するならば、様々な服装を美しく見せる為に、マネキンのようなスラリとした体型が求められているに過ぎないのだ。

ここで少し冷静になって考えてみるならば、服の為に人間の体があるのではなく、人間の体の為に服があるのだという全く当然の認識に辿り着く。我々が服を着るのは、服によって自らを美しく着飾る為であり、服そのものを美しく見せる為ではないのだ。ところが正に、この「服そのものを美しく見せる為に」多くのファッション雑誌は作られているのではないだろうか。そして、そこで紹介されているコーディネートを、自らの体のフォルムや性格、その服を着る状況などを正確に把握することなく、ただ単に真似ることで一体何が達成されるのだろうか。

恐らく多くの人は、様々な服を着せることが出来る体型を「良いスタイル」と呼び、着る服に制限を与えてしまう体型を「悪いスタイル」と無作法に区別することに慣れてしまっているのではないだろうか。ところが、この短絡的な思考は「悪いスタイル」にも工夫次第でいくらでも美しい服を着せることが出来るという可能性を全く見落としている。音楽に於いて難しい曲を美しく演奏出来ないのは、演奏者の芸術的技能に問題が有るのであって、楽曲そのものに問題が有る訳ではない。音楽に於いては「難しい曲」と「簡単な曲」を区別することよりも、練習を通して自らの芸術的技能を向上させていくことのほうが本質的であるように、「良いスタイル」と「悪いスタイル」を見分ける能力を手に入れるよりも、自らの体型や気質に適した衣服を選択する芸術的な感覚を手に入れることのほうが重要なのではないだろうか。

こうして「芸術的な感覚を養う」という問題の重要性が浮上する。そして既に述べたように、それは先ず「手本を真似る」ということから始まる。だから丁度、書道では手本を真似ることで美しい文字を書く能力を身に付けるように、ファッション雑誌などで見られるような美しい着熟しを真似ることで自らを美しく着飾る能力を発達させることは出来るだろう。しかし機械的にコーディネートを模倣しているだけでは、自らのスタイルの悪さを認識するに至るだけなのではないだろうか。確かに、「学ぶ」ことは「真似る」ことから始まる。しかし本来の学びとは人間の「内的な成長」を意味する。そして人間の内的な成長は、意識的・能動的な努力によってしか得られないのだ。

ところが、実際には何が起きているのだろうか。自らを美しく着飾る服を選ぶことが出来ない者は、自らの美的感覚の欠如ではなく、自らの体のフォルムそのものの欠点、詰まり「スタイルの悪さ」を嘆くのだ。これは全く不思議なことではないだろうか。何故なら意識的な自己教育によって或る程度まで解決可能な現実を飛び越えて、その背後にある遺伝的・生理学的現実へと問題意識が移行しているからだ。蛇足だが補足しておくと、遺伝とは親から子へと形質が伝わるという現象を指し、それは多くの場合「教育」によって解決可能な範囲を超えている(白人の子どもの肌が白いのは白人を親に持っているからであり、肌の色は教育の結果ではない)。確かに、食べ過ぎて太っている人が食餌制限をすることで痩せることは出来るかもしれないが、骨の長さまで変えることは出来ない。だからダイエットで余分な贅肉の量は減らせても、手足は長くならないし、顔も小さくならないのだ。痩せることで昔着ていた服を再び着ることは出来るようになるかもしれないが、痩せたからと言って全ての人間がモデル体型に成る訳ではない。

ファッションセンスの無い者は先ず、自分に似合う服が見つからない理由を自らの容姿の問題と取り違えてしまう。こうして「服を着る」という色彩の問題が、形態(フォルム)の問題へと移行する。更に、フォルムに対する感性、彫塑的な感覚が欠如している者は、単に痩せていることと「スタイルが良いこと」の区別がつかない。だから、このような非芸術的な人間は、「カロリー」の摂取を制限して痩せようとするのではないだろうか。実際、カロリー摂取を控えれば痩せ、痩せればスタイルが良くなり、スタイルが良くなれば様々な服を自由に着熟すことが出来ると単純に考えている人間は、現代に於いてそう珍しくはない。

教師に向いている者がいれば医者に向いている者もいることが当然であるように、洋服が似合うスラリとした体型の人がいれば、和服が似合うようなずんぐりとした体型の人がいることもまた当然のはずである。そして人間は誰しも『世界に一つだけの花』であるという認識がこれほど社会に浸透しているにも関わらず、ひとたびファッションの領域に入ると顔が小さくて手足が長いモデル体型が、「唯一の」美しさの基準になっており、カロリー摂取を控えて痩せることが自らを美しく見せる「唯一の」手段になってしまっている。そこにあるのは、大量生産された工業製品のような非個人的な価値観であって、芸術的な感性はどこにも無い。

現代に於いて更に憂慮すべき問題は、大量生産された価値観を多く有している人間ほど、「社会的な」振る舞いをすることが出来るということである。例えば食事の席に於いては「この料理はカロリーが低いんですよ」と言われれば、間髪を入れずに「わあ、すごい」と目の色を変えて喜ぶことが現代日本に於いては正しい礼儀作法とされている。詰まり、低カロリーは「良いこと」であり、高カロリーは「悪いこと」であるという予め決められた判断というものがあり、それに従って感情を表現することが、社会的であろうとする者に求められている行為なのだ。丁度、スイッチを入れれば必ず点灯することが電球に求められているように、社会的であろうとする人間には機械のように規則的な振る舞いが求められているのだ。

2006年9月に「痩せ過ぎのファッションモデル」がスペインのマドリード・コレクションPASARELA CIBELESに参加出来ないという「事件」が起きたことは記憶に新しい。主催者は「人々が食欲不振や過食のような生活習慣病や精神的な病気を増加させるようなファッション、とりわけファッションショーに、惑わされることのないように手助けできれば良い」と述べているそうだが、是正しなければならないのは痩せ過ぎのモデルが出ているファッションショーそのものではなく、寧ろモデルが痩せているから自分も同じように痩せていなければならないと判断する、若者の短絡的な思考力なのではないだろうか。ここでも機械的に「真似る」ことではなく、人間として判断力を成長させていくことが問題の本質に繋がっているように思える。

人間が機械のように規則正しく振る舞う社会には、調和はあるかもしれないが自由は無い。逆に人間に自由を認め、不協和音が鳴り始めた社会に於いては、一体何が求められているのだろうか。そこで求められているのは機械のように「間違えが無い」ことではなく、間違いや失敗をしながらも成長していくことではないだろうか。これまで述べてきたように、例えば「服を着る」という極めて日常的な領域の中にも、「芸術的な感覚を養う」という自己教育の問題を見出すことが出来る。そこに於いて人間は、成長する可能性を持っているのだ。

機械のように流行に合わせた服を闇雲に着るのか、服のセンスの無さを自分のスタイルの悪さに摩り替えてしまうのか、或いは自分で服を着るという行為を人格の問題とし、自らの感性を磨くことで成長しようとするのか、人間は自由に選択することが出来る。


文:竹下 哲生



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